ときおり考えずにはいられない。
わたしは、今この人に時間・お金・エネルギーをかけてもらう価値のある人間なのかと。
わたしの値打ち……そう、わたしはわたし自身の値打ちについて考え、不安な気持ちになっている。
ときに、わたしに価値がないかもしれないと思うからこそ、わたしの器にみあわない過剰なサービスをしてしまう。
そうして、つかれて傷つく。
まわりから見たら勝手だろう。
でも、これには理由がある。
そうした不安を抱くとき、わたしは「無」を共有できないと感じているのだ。
「無」を共有することは、たとえば意味のない言葉のループ、無音の時間、ただ同じ空の色を見ること、似ている悲哀があることを察すること。
「無」の共有を説明するには、「有」の共有を説明するほうがわかりやすいかもしれない。
「有」の共有は、なんらかの創作物、感想、知識、意見など有用で価値のあると思われるものを交換することだ。
わたしは、「有」の共有を通して互いの価値を高めあうような関係に憧れない。
そういう関係はわたしを不安にさせるからだ。
わたしには値打ちがあるのかと。
わたしの値打ち、生産性、コストパフォーマンス。
それは彼の悪徳の温床、「労働」でうんざりだ。
ただひたすら疲れてる。
わたしは「有」とは無縁の森になりたい。
そして人間は立入禁止だ。
このブログを読む前から意味が染み込むようにわかっている存在は、きっと森の住人になれる。