k-zombie’s diary

ツイッターにおさまらないことなど

「最近マスクを外して誰と会話した?」

また、なにもしたくない、スマホを割って半年くらい引きこもっていたいの波に飲まれていたが、なんとかやっている。

完全に波にのまれてしまえば楽なものだ。薄暗い室内で布団をかぶり続けていれば、3日も3ヶ月も300日もさほど変わらないと思えてくる。

しかしながら、わたしは賃労働者であり、そういうわけにはいかなかった。中途半端に眠った心身を引きずって空元気の笑顔をはりつけて蟻のように働いている。

 

ところで世間は未曾有の感染危機で、わたしの職場でもマスク着用が義務付けられている。

マスクは良い。

息苦しくわずらわしいが、マスクは良いものだ。

なぜなら、マスクの下で口をぽかんと開けてアホ面になっていても、腹が立ったときに舌をペロリと出しても気づかれないからである。

 

ふと思う。

マスクをしてるとき、わたしはいったいなにをマスク(覆い隠して)いるんだろう。

 

気がついたら、わたしがマスクを外すときは、森にいるときか自宅にいるときに限定されるようになっていた。

人と接する場面ではマスクをすることが新しい常識で最低限のマナーになりつつあり、マスクを外すということはかなりプライベートな行為と言えそうだ。

 

今の世情で、こんな質問はぎょっとされるかも。

「最近マスクを外して誰と会話した?」

 

半年前には当たり前だった行為について聞くことが、いつの間にか、セックスのことを聞くような気まずくずうずうしい響きを帯びるようになっている。

 

人と会うこと、会話すること、それが口にできない秘密になってきている。

 

なんだか急にプライベートとパブリックの境界がぐちゃぐちゃと変化していて、ついていけない。

 

ところで、聞こえ等の兼ね合いでマスクをするとコミュニケーションが難しくなる人たちがいる。

マスクの意味を理解できなかったり皮膚感覚の問題でマスクをつけることができない人たちがいる。

 

感染症は差別しないというが本当だろうか。皺寄せはどこにいき、皺の伸びたきれいな部分には誰がいるのだろう。

 

時々気づく。普段は忘れてる。生活の糧を得るために

突然気づいてしまった。

私は今の仕事が心底嫌だということに。

職場の人間関係は関係ない。

ただ労働形態によって壊れていく自律神経と、職場の構造的な問題に目をつぶり続け日ごと心が腐っていくのを見てみぬふりをして働くのがとても嫌なのだ。

 

前から知ってた。就職して三日目くらいにはもうわかってた。でも、生活の不安で頭をいっぱいにして忘れていた。

 

ニュースを見る。本を読む。そこには間接的に直接的に今の職場への批判が書いてある。

そうだね。全くその通り。ほんとにそう思うよ。

なぜ私の職場は問題だらけなのか。法人が悪徳だからだろうか。いいや、決してそうではない。社会の無関心と効率化、生産性至上主義によってネグレクトされ続け、結果その歪みが淀んでいるのだ。外圧によってひしゃげた箱に大勢の人間が閉じ込められている。そこにいる人間だけの問題ではない。内側から変えられるものではないのだ。

 

今夜わたしは正気にかえった。

明日働くときわたしはまた正気を忘れて勤務するだろう。

早くやめなければならない。

 

服のこと

服のことを考えるといつも憂うつになってしまう。一日かけて街中を歩き回ってありとあらゆる服屋を見てまわり、そこにわたしサイズの着たい服がなくて泣きそうになりながらとぼとぼと帰る。それがお決まりのパターンだ。

わたしには目指すべき方向がなかった。雑誌を見てもむなしいから見なかった。メンズ服は大きすぎる。レディース特有のデザインは着たくない。わたしのサイズに見合い、レディースっぽさのあるデザインやラインを慎重に廃すと、着ることのできる服はトレーナー、パーカー、Tシャツ、ジーンズ。これだけだった。なんて情けない。

 

わたしは無になりながらファーストリテイリングの無地のTシャツとジョガーパンツとパーカーを毎日着て労働に出かけた。ほんとうに無だ。自我のない服だ。あえて好きになれない絶妙に嫌いな服を選んで着ていた。

労働はしなないとできないから。

 

わたしはわたしの裸を嘘だらけだとおもう。わたしの身体をみてもそこにあるのは社会的わりあてとジェンダー化された社会のルールだけだ。

だから、服を着なければならない。わたしの身体を上書きする服が必要だ。

 

しかし最近、ひとに励まされ、海外のトムボーイ(あるいはトランス男性)のファッションスナップを見せてもらい、かっこいい靴ととんちき服を探してる。服のクィア性を考える。派手であればクィアだと言いたいわけではない。しかし、すでに付与されてる文脈をぶっ飛ばす強さが必要なのだ。

無地よりも柄、アースカラーよりも原色、硬くてゴツい革靴。

 

無難な服は弱い。わたしを無にしてしまう。ジェンダーという文脈をあいまいにしてしまうような、意味不明な強さ。それがほしい。

わたしは無になりたくない。

鎧のような服でわたしのやわらかい肉を覆う。

わたしをジェンダーにする服を探してる。

絵日記のこと

言葉から離れたいと思うときがある。

なにも言葉にしたくないとき。

ただ、それでもなにかをしなければならないような気持ちであるとき。

 

絵日記をはじめたのは、1月の終わりのころだった。

言葉から逃れるようにはじめて、途中から始めた動機を忘れて、絵日記自体をたのしむようになった。

見てくれる人もいた。

けれど、6月になって、絵日記をはじめたきっかけが消えてしまった。

今は絵日記を続けるかどうか迷っている。

区切りかな、と思う。

 

わたしのなかには感情を放り込んで蓋をする箱がある。

別にそれで爆発したりするわけではないので、なんでもそこに放り込んで、わたしをおびやかさないくらい鮮度を失ったら、取りだして整理するのだ。

絵日記は、その箱の鍵穴だったかもしれない。

なかを覗けるちいさなすき間。

でも、鍵穴に目をあてたところで、生の感情が見えるわけじゃない。むしろ、ぼんやりと違うものがみえるような、あいまいにするためのしかけだった。曇ったカレイドスコープのようなものだ。

それは中のものを思い出すよりも、保存しながら忘れるための役割を担っていた。わたしは箱の中身よりも、表面の木目のほうが重大事であるように絵日記を描きはじめた。

 

それがわたしには必要だったのだ。

 

 

 

薬を倍量飲んでも眠れない

理由はわかっている。月の3分の1が夜勤なこと、夜勤の翌日に早朝勤務なこと。スマホを閉じることができないこと。

 

日中、特に用事もなかったが胸部を平坦にするタンクトップ型の下着を身に着けていた。胸が平坦だとこれがあるべき姿と思える。自己肯定感があがる。たとえ苦しくても、乳が下垂してもブラジャーをつけるよりはましだ。

そのままの姿で自室の床に転がりインターネット通販の服を眺めていた。メンズ服を検索し、サイズ表を見比べ、わたしのサイズにあわないことだけを確認する作業だった。途中で気絶して、着ていたナベシャツを引き裂かれる夢をみた。朝にシャワーを浴びたはずなのに、覚醒してみると顔にじっとりと脂が浮いていた。

夕方になると絹のマスクを身に着け、ショッピングモールを無目的にブラブラした。専門店外の服屋は営業時間を短縮したままのところともとに戻ったところが、混在していた。

本屋で男性ファッション誌を立ち読みして憧れと嫉妬と絶望を覚える。

 

どれもこれも、わたしにままならなさをつきつけることになる。

なぜ身体はままならないのだろう。

ふしぎだ。

 

そう、己に自我があることを思い出さないようにしている。

社会的にわりあてられたIDに沿って働いている以上、わたしに自我などない。つかれたし諦めたのだ。わたしの内心の葛藤を、圧倒的現実と既成事実が覆い尽くしていく。

男になりたいか?と問われれば違う、と答える。わたしはトランス男性ではないだろう。強いて表現するならばXジェンダージェンダーフルィド、ジェンダークィア、ブッチ、そのどれかだ。

 

しかし、そのことは忘れる。忘れることが賃労働と分かちがたく結びつき、自分だけの部屋の家賃になっているからだ。自分だけの部屋は、わたしの自由の象徴だ。

わたしの自由のために、わたしを殺すことが必要なのだ。

たいしたことではない。いつからか、もう何年も日常としてきたことだ。これから先もそれが続くだけ。

諦めはしっとり冷たい綿のようにわたしを包み込む。馴染み深い万年床だ。

風を読む

わたしは一つの本にだけ集中することができない。あっちをつまみ、こっちをつまみ、というふうにどれもこれも中途半端に読む。

 

そんなふうに同時進行で読んでいると、わたしのなかで勝手につながるものを見つけることがある。

今日は、ふたつの詩のことをぼんやり考えていた。別の作者、時代も国も違う。

けれど、二人とも風のことを書いている。

 

 

「やあ、羊飼い君」フェルナンド・ペソア(筆名 アルベルト・カイエロ)管啓次郎

「やあ、羊飼い君、

道端にいるきみ、

吹きゆく風はきみになんていう?」

「風です、吹いています、

以前にも吹きました、

これからも吹きます、とね。

あんたにはなんていう?」

「それよりはずっといろんなことだよ、

他にもいろんなことを話してくれる。

さまざまな記憶やさびしい懐かしさ

かつて起こったことのないあれやこれやも」

「あんたは風が吹くのを聞いたことがないね。

風はただ、風のことだけを話すんだ。

あんたが聞いたのは嘘ばかり、

そしてその嘘はあんたの中にある」

 

 

「ぼくの時(5篇)」松村栄子

(略)

風が何かを詠っている

ひととき

柔らかな四肢を樹間に抜いて

何か

ひどく大切なことを告げようと

風が

風が身を投げだして

詠っている

 

僕にはそれが

わからない

(略)

 

 

松村栄子の「僕のとき」で風について書かれているのは2篇目である。5篇あるが、他の編についてはここでは省略した。

詩について解釈の仕方も文脈も時代背景もなにも知らない。だからこれはわたしが勝手に並べただけ。

 

人は風になにかを見出したくなるものなのだろうか。

Twitter依存なのでなんでもTwitterで説明してしまうけど、あるつぶやきに対して「なにも読めていない」と思うリプライがつくことがある。そういうときはたいてい、リプライを送った人の心のうちにすでに答えやおそれがあり、それを刺激するようなつぶやきに反応してしまっているのである。

つぶやきは風に似ている。

 

なにかを読めたと思うのは嘘かもしれない。すでに自分のなかに蓄えた解法やパターン、おそれ、劣等感を投影して「読めた」と錯覚しているだけなのかもしれない。

 

ペソアは風に投影するものを嘘だと断じる詩を書き、松村は風が詠っているものを聞こうとして聞こえないという詩を書いている。

 

どうやったら箱の外に出られる?自分のフレームの外にあるものが見えるようになる?

純粋に「風のことだけ」を聞くことができるようになるのは可能だろうか?

 

わたしは無理だと思う。

でも、絶望もしていない。

他者のことを自分という歪んだフレームを介して理解する。そのまままっすぐに理解することはできない。少し歪んだ答えが出てくる。それをわたしは口にする。

他者から応答があるとき、「すこし違うよ」と言われる。わたしは自分の歪みに気づく。

その歪みこそがわたしの形をしている。

コミュニケーションとは、その歪みやズレを少しずつ発見していく作業に似ている。

歪みやズレこそが、わたしやあなたを個たらしめるものだと思う。

できれば、そういったものを発見できる会話ができるようになりたいし、そういう関係性を作っていきたい。

 

 

 

 

 

晴れていたけど外に出ることができなかった

眠れない。

今日はよく晴れた日曜だった。

実際のところ、私の労働は平日土日祝日、昼も夜も関係のない仕事なので、日曜日の今日休日だったのは偶然だった。

 

午前中だけベランダに日が当たる。ベランダに置いた椅子に座り、なんとかオードリー・ロード「ザミ 私の名の新しい綴り」の一部抜粋翻訳を読み終えた。

オードリー・ロードは、1934年に生まれ1992年に亡くなった。黒人でレズビアンフェミニストで詩人で公民権運動などに関わった。彼女の作品は、ほとんど和訳されてない。

私が彼女を知ったのは、大学の英語の単位だった。英語詩が毎回配られ翻訳し、最後に講師が詩人の簡単な解説と詩の翻訳をしてくれる。私の通っていた大学では珍しいタイプの講義だった。

講義で扱った詩のことはほとんど忘れてしまったけれど、オードリー・ロードのことだけは覚えていた。講義では、たぶん作者の属性に興味を覚えたのだろう。オードリーの回では、Hanging fireという詩を扱った。ぐずつくとかそういうような意味だ。少女のモヤモヤした感覚についての詩だった。

「ザミ」は、彼女の自伝的小説だ。アフリカ系アメリカ人であること、レズビアンであること、学生であること、50年代のニューヨークのなかで、どこにいってもなにかはみ出してしまうような感覚に思いを馳せた。

私は彼女のことをよく知らない。もっと詩を読みたいと思う。百年前くらいに挫折した英語の勉強を再開してもいいかもとほんのり思った。

 

よく晴れていて散歩にでも行こうかと思ったけれど、身体が鉛のように重く頭痛がして結局散歩には行かなかった。

昼寝をし、ハッと意識を取り戻したときにKindle松村栄子『僕はかぐや姫』を読む。前にも読んだはずなのに忘れていた。またすぐ忘れてしまうかもしれない。思春期の潔癖てヒリヒリする感覚を感傷によらずに冷酷に書き出しているように感じた。

とても良いとおもう。私は、読書感想文が書けない。「とても良い。すき」それで終わってしまうから。

読書感想文、なにもわからない。私に書くべきことはなく私の感想もさして重要ではない、と思わされる作品がある。とにかく読まれて判断されなければいけない。読んだことのない人に言うべきことはない。私の感想を読むくらいなら本文を読むべきだ。

そう、だから読書感想文は嫌いだ。