k-zombie’s diary

ツイッターにおさまらないことなど

接点

夏だ、夏夏夏夏

 

夏って死の記念日がすごく多い

わたしの夏は6/26からはじまる

相模原障害者施設殺傷事件……あの忌まわしい事件

なぜ忌まわしいのか、それはあの剥き出しの悪意で事件を起こし、逮捕後は同じ言葉を繰り返して、障害者家族や遺族の言葉がまったく届かなくなってしまった犯人が、犯人をそういうふうにしたものが、実はずっと身近な社会にあったものだと気づかされたからだった

 

津久井やまゆり園は辺鄙な場所にある

だから街の人は津久井やまゆり園のことをすごく遠い別世界のように思っている

 

だがしかし、障害者入所施設があるのは、街の人のためである

障害者入所施設に障害者のことを全部任せにしておけば、ソトの人は自分のこととして考えなくてもよくなる

入所施設は、一人暮らしの人を複数人のヘルパーからなる重度訪問介護という制度で支えるより、はるかにお金も人的資源も節約できる

重度訪問介護をつけられるかどうかは自治体の考え方(ひいては住民の考え方)と、その能力のある事業者の存在に左右される

自治体の考え方を変えるのも、事業者が育つかどうかも、わたしたちの関心のあり方だ

今、障害者の訪問系のサービス事業者は厳しい経営をしているところが多いと聞く(そして一生懸命働くヘルパーさんの給料も安い)

それは、国が訪問系のサービスの報酬額を減らしてるからだ

障害者福祉系のサービスは、ざっくり表現すると医療費に似てる

自治体によって障害区分が認定され、区分によって受けられるサービスの量、種類、自己負担が違う

利用者自己負担は一部で、あとは国の決めた報酬に従って税金から事業者に報酬が払われてる

国の方針は報酬というかたちで表され、それはそのまま福祉サービス事業者の数や種類を左右する

でも、この程度の知識も知っている人はまれだ

関心がないから、地域で暮らせる資源は増えない

 

今後、新しい大規模入所施設は減ることはあっても、増えない

それはもう決定事項でゆらがない

施設は、入所者の地域移行支援をすすめている

あなたやわたしがそこにさまざまなものを投棄して、すべて任せて考えないようにして、ネグレクトしていた場所は、ひらかれてゆく

地域に受け皿はあるか??と考えている

入所施設がなくなったら家族がすべて負担すればいいや、ではない

それでは『母よ殺すな』の時代に逆流することになってしまう

 

2022年に国連からあった勧告では、障害者の分離教育が、精神科への強制入院と同じくらい悪いこととして指摘されていた※1

わたしが子どものころは、まだダウン症だなとか境界知能だなという子と同じ学校に通い、同じ公園で遊んだ記憶があるが、早期療育、支援の枠組みが整備されるにつれ、皮肉にも学校でも職場でも、知的障害者の人と接する機会はごくまれになった

学校も、通う職場も、分離されている

そんななか、無茶苦茶な内容のフィクションで知的障害者のイメージが歪んでいく

専門的な支援をうたって、社会の無関心をきっちりと隅々まで整備してきてしまったのかもしれない

そう思うとショックだ

 

この前、わたしの知ってる人が亡くなった

おしゃべりが好きで、ちょっと頑固なところがあって、友だちと喧嘩をしたり仲直りをしたり、毎日日記を書いていて、お姉さん肌のその人は、施設で暮らしていた

知的障害があった

葬儀に参列したのはごきょうだいと施設関係者だけだったと聞いている

 

ひとりの人をとりまく人間関係が、本人の意思と関係なく支援者と家族だけに限定されてしまうのは、なにかほんとうはこわいことのような気がする

 

恵庭の奴隷状態で20年間働かされていた3人の知的障害の人※2、戦後も長く続いた強制不妊手術※3、旧優生保護法が廃止されたあとも結婚を望む知的障害者へ実質的な強制不妊手術があったこと※4、当初相模原の事件で被害者の19人の実名が(警察の一存で)発表されなかったこと、ハンセン病療養所にいれられた回復者の方が家族への差別のために実名を名乗れなかったこと、それらがごちゃごちゃとあたまのなかを駆け回っていく

 

 

一番思うのは、接点だ

メディアに出てるのはすべて二次情報で、フィクションは基本的に脚色があり、歪んでる部分がある

ほんとうはみんなに(みんなっていうのはみんなだ)、知的障害のある人と接してほしい

なにが好きで、どんな表現をするのか、わかるくらいに近くにきて、長く関わってほしい

それくらいの接点が、個人がうんと努力しなくてもなんとなく持てるような社会になればいい

 

 

 

 

「それぞれのかたちの」

 

17時15分、浴室の混雑が落ち着いたころ

Мさんの髪の毛を洗う

独特のウェーブが水をはじくので

シャワーが頭皮に浸透するように

丁寧に指でもむ

濡れた入浴着が脚にまとわりつく

 

Мさんがあっ!と声をあげる

むし!

わたしはこたえる

むしにはむしのかたちのいのちがあるんですよ、だから殺したらいけないですよ

ほんと?じゃあ、おさるは?

おさるにもおさるのかたちのいのちがありますよ

いぬも?

いぬもいぬの

ねこも?

ねこもねこの

 

浴室のやりとりが泡に流れてく

湯気にゆらぐ

にんげんのかたちがふたつ

わたしたちの、それ

おそらくはおなじ重さのはずの

あなたとおなじかたちの

それでいてそれぞれまったく違い……

 

わたしは見てくれよと思う

ここに来てみんなМさんの知り合いになってよ、と

 

Мさんのシャンプーのかおりがしないから

なんの話なのかいつもわからない

ちまたで渦をまくいのちの生産性の話

わたしわからないから

やけに断定して話すひとの

かたちを見てみたい

 

自由詩 それぞれのかたちの Copyright 凍湖 2025-05-01 01:45:

 

 

 

※1【2022年9月9日】障害者権利条約~はじ

めての日本の建設的対話が実施され、国連障害者権利委員会から日本政府へ勧告(総括所見)が出されました~ - DPI 日本会議 https://share.google/Dld1DRGPU63HQ6CAK

 

※2奴隷のような20年間の牧場暮らし。どうして、助け出してあげられなかったのか|公共訴訟のCALL4(コールフォー) https://share.google/hiJYDhGizCkaxWNUW

 

※3障害者の人権を侵害した「優生保護法」が近年まで存在したのはなぜか | 社会・ライフ - Meiji.net(メイジネット)明治大学 https://share.google/2AbEpBAreXZKKQzX8

 

※4結婚望む障害者に不妊手術…優生思想の亡霊は今も 障害者の自己決定権を脅かす社会の危うさ:東京新聞デジタル https://share.google/iPs4TdEif4OGBAjs2

わたしのPRIDE

生きてることを意識すると、びっくりするくらい悲しくて息が詰まりそうになる

でも息が詰まったままでは死んでしまうから、すべてパロディだと思って笑う

おもしろくなくてもおもしろいということにして笑う

滑稽で愛しいよ

ほんとに、全部

こんなに必死で

 

 

この前、よく知ってる人が亡くなった

仕事とはいえ、約2年間ほとんど毎日会っていた

まだ信じられない

わたしの手を引っ張って歩く力強さだけを思い出す

人はみんな死ぬ

 

考えても意味のないことはあまり考えたくない

酒浸りになる素質が自分に確実にあるのがわかってるから、とにかく自由時間を塗りつぶすように映画を観てる

映画は一人でできる趣味だからいい

そんなに知識がなくても面白いし、ただ座ってるだけで始まって終わる

四時間睡眠、早朝出勤、フルタイム労働からのレイトショー映画とか平気でやる

17時から23時まで一人飲みするよりはマシだけど、映画館で意識を失ったりものすごい吐き気に襲われたり視界が霞んだりしてるので命が削れてる感じはしてる

 

 

どうでもいいことをつらつら書いていたけど、PRIDEのことを書こうと思っていたんだった

ここ数年でわたしは性別不合なる診断がつき、胸オペして、改名(よみ)して、部分的に職場カミングアウトして(受け入れられて)、かなり立派なトランスパーソン√を歩んでる

でも、ほんとにいまだに自分がトランスパーソンだという自覚(?)が薄くて、男だか女だかよくわからない生き物になっていってるな〜~ってわけわからないな〜~って他人事のように思ってる

今の職場はかなり男女がぱっきり別れてて、わたしは“おんな”にふりわけられてて、そのこと自体は自分なりに納得して、受け入れてる

“おんな”のほうに振り分けられてるが、“おんな”らしくしろという圧力は皆無に近い場所であるからやれてるし、たとえ違和感があったとて日々のたつきを得ることのほうがわたしにとって大事だ

 

わたしのなかで、性別のことがいついかなる時もすべてのことに優先するかというと、そうではない、という現実がある

そのときどきで、後回しにしたり、尊重してもらえそうなときは尊重してもらったりする

リスクとベネフィットだ

ズルいけど、生きるためにはしょうがない

生きるために諦めることがある

 

それをひとはPRIDEのない行いだと言うだろうか

言う人もいるかもしれない

でもまあいいか、と思う

生きるためだから

生きるためにできることはなんでもしてきたしするよ

そこに恥はない

自分で考えて選んでやってることだから

生きるためにやることはすべてわたしの意思だから

わたしはわたしの行動を引き受ける

それがわたしなりのPRIDEだと思う

 

わたしは6月以外も生きてるし、虹色の珍獣でもない

だから自分のためにズルく生きる

脳みそは勝手に死にたがるけど、こんなに必死で、やっぱり滑稽

 

 

うっすらと吐き気がする

 

気づいたときにはうっすらとした吐き気が常にあった

人生のほとんどすべての瞬間に吐き気があった

数年前に開始した薬でその吐き気と手を切れたが、通院日のカウントをミスって薬を切らしてしまい、また吐き気に苦しんでいる

 

この吐き気はなんというか、乗り物酔いに近い

生きてることについてまわる吐き気

 

 

最近また人生について考えていて、数年前と自分の捉え方や感覚が変わってきたのを感じる

数年前は人生という単位を捉えることができていなかった

過去も未来もなく、ただ瞬間、瞬間があり、状況に翻弄されてるだけだった

今はすこし人生というものが見えてきた気がする

歳を取ったから

もしかしたら胸オペしたのも心境の変化に関係してるかもしれない

 

人生というものが、期待と役割演技でできた玉ねぎのようなもので、演技を剥いていったらなにも残らないのだとしても、“演技してる”のは自分だと思っていたい

わたしは自分をよくしようという意志を持つ人に惹かれるし尊敬の念を抱く

わたし自身もそういう努力ができる人間でありたい、結果的にうまくいかなくても、努力できてなくても、自分の行動は自分なんだという意思と責任を持ちたい

 

人生にはアンコントローラブルなことがままあるが、しかし100%ではない

アンコントローラブルなもののなかに、自分を見つけて、どういうふうにしていくのか考えるのが結果的にのちのちの己の救いになるのではと思う

 

でもそれって苦痛が伴うよね、こわいし

一刻も長く我を忘れていたいって今もずっと思うよ

でもしょうがないよね、ほかの誰かの人生じゃなくて自分の人生なんだし

やれることをやっていくしかない

 

はあ、これが大人になるということか

吐きそう

 

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限度

まずはじめに言っておきたいことはわたしはカミングアウトなりなんなりしてない人間(わたしをこのように扱ってほしいというアテンションをしてない相手)に、ミスジェンダリングという概念を適用する気はない、ということです

 

そのうえで、今回はミスジェンダリングの話をしたい

 

 

この前、とある知人をあらゆるSNSからブロックしました

相手はわたしのことを“友人”と思っていたようですが、到底許容しがたい不義理を長年にわたり繰り返ししてきたあげくに自発的な謝罪がなく(わたしが直接事実を指摘したときに一回口頭で謝ったが再発防止する能力はない)わたしの限度を超えていたのと

十数年以上、直接会ったりSNS等を通じてわたしのジェンダーアイデンティティについて必要十分に知る機会があったにも関わらず、十数年前ほんの一年足らず存在したわたしがフェミニンな表象をしていた時代(※あまりに苦しい黒歴史)について、わざわざ言及してきたことが決定打でした

 

あなたはわたしのジェンダーアイデンティティをご存知ですよね?それなのになぜわたしが“おんな”に適応しようとして血反吐はいてたときの話を無造作に持ち出すんですか?わたしの人生に一年くらいしか存在しないその時間、その時代の話を持ち出されるのがどれほど不快かわからなかったんですか?

知っていたにも関わらず、わたしアイデンティティをわざわざ踏みにじるような言動をしてくるのは、ミスジェンダリングといってもさしつかえないでしょう

 

とまあ、こういうことを考えたわけです

非常に狭い界隈だから、偶然会う機会はこれからもあるでしょう

そういうときに、大人の対応として話しかけられれば返答するくらいの礼儀はあります

でも勘違いしないでほしい

それはあくまでも礼儀であって、友情ではない

 

でも、この知人はSNS等では、はばかりなく自分のことをトランスアライと自認して公言しています

自分のしたことの意味に気づいていないので、SNS等でつながっていたらこれからも無自覚にこのように不愉快なアグレッションをする可能性は十分にあるだろうと見立てています

だから、接触機会を最小にするために、SNS等でのつながりすべて切りました

リアルイベントでの偶然接触可能性は排除できないものの、お互いの平和のためなので、ご了承くだされの気持ちです

 

まあ、ご了承しなくてもいいですが

 

 

それにしても、最低限の想像力もない人間がトランスアライ公言アカウントの中身なのキッツいなあ

悪趣味

まず一言目

 

世界平和なってほしい

 

今ある戦争も、これから起きる戦争も、弾圧もすべてなくなって欲しい

 

 

 

さて、義務的な導入を終えたところで、なんの役にも立たない日記をだらだら書く

 

最近、なにもかもロールプレイだと思うようになった

日常の細分化された場面で、わたしは違う人になる

労働者のロールプレイ、街での通行人Aのロールプレイ、政治活動するときのロールプレイ、友だちとのロールプレイ

自分をおんなだとは認識していないが、おんなだと認識されたときに、“認識を間違ってる”といちいち訂正してまわるような気力は一切なく、これ以上“パス度”をあげるためのホルモンやら筋トレやらをしようという気もない

不快さや痛みがないわけではないが、ただ場面に沿ったロールがいまおんなのほうに振り分けられてるだけなんだと思うと、痛みは最小になる

誰も悪くなく、強いて言うなら相手を“誤解”させてしまうようなパス度のわたしの努力が足りないだけだ

わたしにこれ以上努力するパワーがないのだからしょうもない

 

 

最近、自分はトキシックマスキュリニティが好きなことに気づいてきた

ただ実践したいとは思わない

というか、わたしでは実践者にはなれないだろう

見た目も言動も、そこに入っていく資格保持者ではない

わたしに与えられるのは、それを輝かせ支え立てるロールだけだ

輝かせ支え立てるロールを必要とするほど、その脆さが露呈し、“下”に依存しながらふんぞり返ってる裸の王様へ哀れさと愛しさが同時に込み上げてくる

だけど、近くで支えて裸の王様の一部になってせめてもの慰めを得ようとするのも違うかなと感じてる

わたしは安全な距離で、裸の王様の有害さをたのしみたいのだ

だからたくさん映画やマンガやアニメを見る

そこに有害さが含まれてるほどわたしはうれしくなり楽しくなる

作り手にそれを冷めた目で見る冷静さがあればなおよい

悪趣味だと思う

 

悪趣味を悪趣味としてたのしみたい

だから世界は平和になってくれないと困る

世界そのものが悪趣味のかたまりになってしまったら、フィクションはフィクションではないのだ……

 

桜は美しいが、桜の散り方と命が結びついて賛美されるような世界になったら、桜は醜い

桜を美しいと感じていたい

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3X歳

 

この前、誕生日だった

 

誕生日って考えることがいっぱいあるはずなのに、あんまりなにも浮かばない

 

誕生日に母からわたしがうまれたときについて言及したLINEが来たが、“ありがとう”のスタンプを返信をして終わりにした

こうすることができてほんとうに自分は大人になったなと思う

もはやわたしは母のための存在から脱し、しかし過剰な拒絶もせずただ最低限の礼儀だけは返せるようになった

 

若いころ根拠なく30歳超えたら今のつらさはなくなるよ、と言われたものだったが、このとくに理由のない鬱病的な自動思考がなくなる気配はない

30歳大丈夫説はうそだったなと思う

 

ところで35歳限界説というものがあるらしい

どんなやつも35歳まではなんとか生きるが、そこが限界だ……というものだ

次の大台は35歳か……できれば乗り越えたい

 

ほんらい生きる意味なんてものは存在しないが、たえずやってくる自動思考に対抗するために生きる意味が必要だ

こんなわたしにもわずかながらも、友人がいて、その友人たちが折々や誕生日に生存を祝ってくれる

そういう人たちを裏切らないようにしていきたい

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でも、年老いて親しい人がひとりもいなくなって、汚く、軽蔑されても、しぶとく生きて、世に唾吐いていたいななんてことも思う

 

意味なく生きることの意味よ

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「わたしを愛してくれた母に」

一億五千万年ぶりにジンを作りました

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非常に個人的でナイーヴな内容のジンで、母の愛と支配と侵入、別離をテーマにした6篇の詩からなる詩集です

おそらくはこれを読まれた方は気持ち悪いとかこわいとか感じるのではないでしょうか

 

母とのことは、長年わたしのなかで大きな課題であり、いつか母とのことを語らねばならないと思いつつ、散文的な形式では無理だということもわかっていました

 

比喩とフィクションを交えないと表現できないのです

 

 

すこし詩の話をしましょう

わたしはもう20年くらい(!)ひとりで勝手に詩を書いていますし、たまに読んでもいます

詩を書くとき、わたしは詩を書くために書いているのではありません

主義主張というようなものもほとんど意識しません

ただ、胸の底に焦げついたものを掬って、外に出しているだけなのです

これだけ長く書いてると、誰に習ったわけでもありませんが、すこしはコツや呼吸のようなものも掴めてきます

詩のなかでは、愛してるとか嫌いとかは書かなくていいんです

色とかモノとか景色とか温度とかそういうことばかり書いて(つまり比喩だけで)、その内容が察せられるように書けてれば、いい線をいくと思っています

そのままズバリを書かなくていいこと、嘘と真実が混然一体となっていても、それを心なかの真実として表現できるのが、詩という形式です

 

 

わたしは母のことを毒親という単純な枠のなかにいれたいと思ったことはありません

母はわたしを愛していました

けれど、わたしたちは別れなければならなかった

いつか息子が父を殺すように、わたしは母を殺さねばならないのです

 

これはそういう詩集です

そしてささやかながらわたしのクィアとしての経験も反映されています

手前味噌ですが、わりと良いものかなと思います

ほしい人がいれば(わたしの知り合いとかじゃ全然なくても)気軽にお声がけください