友だちと別れるとき、必ずと言っていいほど口にする言葉がある。
「生き延びようね、また会おうね」
もう何年もかなり長い間、生きるとか死ぬとかそういう話をしている気がする。
大げさな気がするけど、全然大げさではなく、わたしたちは真面目にまた生きて会えることを祈っている。それが悲しい。それだけただ生きることが厳しい。
今日はトランスジェンダー追悼の日。
今年死んだトランスジェンダーの人々は、320人だという。
でも、日本国内で亡くなった方は数に入っていない。
日本で亡くなったとしても、その死は社会に認知すらされず、ごく限られた人々のなかでひそひそ話になるのが関の山なんじゃないかという気がしてならない。
クィアの友人知人たち、「生き延びてる責任」の話をする人が多いという気がしている。
「みんなに生かされてる」「この歳まで生きる予定ではなかった」だから「還元しなくてはいけない」と。
ある種の才能や立場から社会の要請で、代表のようになってしまうことがある。
でも、誰かの希望になるために、世界やコミュニティになんらかの責任を負っているかのように生きるのは、きつく厳しい。
誰も代表になるべきじゃない。個人が負うのは重すぎる重荷だ。
本来なら、わたしたちはのびのびと個人の幸福を追求して生きる権利がある。
わたしは、友人知人たち、直接は知らないけどコミュニティにいる人たちみんなに生き延びてほしいと思う。
ただ単に自分のために存在してほしい。
楽しいことや幸せなことがたくさん訪れてほしいし、安心してほしい。
それがむずかしい人は身を守ってトンネルを抜ける日を見つけてほしい。
どうか生きている自分を労り、ほめてあげてほしい。
こんなことを言ってるわたしも、健康ではない。
はるか昔にうつの形になってしまった脳みそが戻ることはなく、影のように希死念慮がつきまとっている。
でも、もはや誰ひとりいなくなってほしくないという思いがある。
だから生きなくてはいけない。
死にたさがあるのは仕方ない。それも込みで生きる。
ただ生きるために。