身体違和ってなんなんだろう?とずっと考えてきた。
それがあるのかないのかすら、わたしは確信が持てないでいた。
脆い足場の上で自分を問い直し続け、疑い続け、思いこませて我慢し続け、どこにも進めないままこの歳になってしまった。
それは、すごく不安定で、不快で、自分でもわけの分からない怒りや不安や虚無感に覆われる感覚だ。
数週間前、友人と宅飲みしたとき「あなたは十分がんばってきたよ、あなたのその感覚は違和だよ。この先あなたが医療にアクセスしようとしまいと開き直っていいんだよ」と言ってもらえて、それ以来「守られてる」感覚がある。
自分を疑い抑圧する苦しさや、社会にわかりやすく証明しなきゃいけないようなプレッシャーに削られることが減った。
わたしは認められたかったんだと思った。
自分のあたまのなかにしか証拠がないこと。
わかりやすく表現もできない感覚。
それにとても耐えがたい気持ちになること。
その葛藤を大切な友人に認められてはじめて、わたしの感覚はほんとうにあるものなんだ、と思えた。
そしてはじめて、確信を持って、安心できる身体がほしいと思えた。
それはすごく大きなことだ。
わたしの安心できる身体は、今の形ではないです。
胸は、いりません。
自分史がどうとか診断がどうとか関係なく、今はじめて確信を持って、そう言える。
胸のない身体になって、その自分を目の当たりにして、安心したい。
死ぬ前までには、安心したい。