わたしは「なに」なんだろうとよく考える。
わたしはわたしを説明する言葉を持たない。
まずわたしがわたしを理解していない。
次にこの性別二元論用の言葉や概念しか用意されていない世界に、性別二元論ではないありようを必要充分に語ることのできる言葉が存在していない。
言語がないということは、言葉で抽象概念に昇華し整理するということができないということ。これが自分で自分を理解できないことにつながっている。
そして、言葉で他者に説得なり納得なりさせることができないということ。
自分について語ろうとしようとすることは、手足を縛られたまま泳ぐようなことに感じる。
わたしは新しい仕事に就いた。
その職場で、毎日他人の性別をジャッジし書類に記入している。あらゆる書式に性別欄があり、それらは関連付けられて管理されている。
わたしがその仕事に就く何年も前から決まっていたルールで同僚は誰も疑問に思っていない。
毎日同じことを仕事で遂行していると、それが常識となっていき当たり前のことと疑問に思わなくなる。
他人の性別をジャッジするという、自分がされたら嫌なことが無意識化され、身に染みついていくのを感じる。
これが性別二元論の世界かと思う。
ときどき吐きそうになる。
わたしがわたしの存在をすり潰されないようにするのに、不特定多数の常識やルールを壊して変えないといけない。
それはきれいに整備された町並みの石畳をすべてひっくり返しボコボコにするのに似ている。
迷惑そうな顔をされ、理解不能と思われる。
そして、わたしはそれをする切実さはあるのに、なぜ切実なのかはわかるように言えない。
わたしは女性とみなされている。
そうみなされるのも仕方のない見た目をし、声をしている。
わたしに身体違和はないかもしれない。ほんとうはそれほど自分の身体や声が嫌いではないかもしれない。
けれどよく胸がなかったら?声が低かったら?と想像する。
もっと生きやすくなるだろうか。
なぜ身体違和がないかもしれないのに、こんなにも自分を変えなければいけないのではないかと考えるのかわかるだろうか。
言葉よりも雄弁なものが、たしかな証拠がほしいから。
女性とみなされたくないから。
……いや、違う。
また語り落とした。