k-zombie’s diary

ツイッターにおさまらないことなど

わたしがフェムだった時代

昔わたしはフェミニンに装っていたことがある。

18~20歳ごろで、髪の毛を長く伸ばして多少の化粧もしてワンピースやスカートを日常的に着ていた。

そのころ、わたしは「大人にならねばならない」と考えていた。

当時のわたしにとって「大人になる」とは「シスらしくなる」ということだった。

 

実際、社会が求める「大人のふるまい」や「マナー」と呼ばれるものが、シス性への忠誠を示すことであることはしばしばある。

冠婚葬祭に就職活動などフォーマルな場になるほど、シス性を拒否するふるまいは子どもっぽく場違いなわがままに見えるだろう。

 

とにかく当時のわたしは、それまでの自分らしさを打ち捨ててシスに適応しようとした。

クローゼットの中にワンピースやスカートが並んだ。

悪戦苦闘しながら長い髪の毛を編み込んで、メガネをコンタクトにして、化粧をし「女性らしく」なると突然わたしの存在に気づいたようにする人が増えた。

それは奇妙な経験で、それまで路傍の石のような存在だったのに人間の形になったみたいな感じだった。

わたしを無視していたというかまるで存在に気づいていなかったような人がわたしに笑顔を向けて話しかけてくる。

目に見えない透明な膜が世界から取れたのかと思った。

しかし、わたしはやがて食事が取れなくなり、限界を迎えた。

ある日、なにがどうしても無理になり、長い髪の毛をばっさりと落としフェミニンな服を捨てた。

元の通りに、そのへんの小学生かかかしみたいな格好に戻ると、またある種の人びとの視界からわたしは消えたようだった。

まるで潮が引いたみたいだった。


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シスに適応しようとすると、対等で年相応の人間として扱われるのかと思う。

つまり中性的な装いをすると年相応に扱われないということだ(ついこないだは見知らぬ人に高校生に間違われた……!)。

 

もちろんシスジェンダーだって多彩なジェンダー表現の人がいるだろう。

フェミニンに装わない人はシスではない、と言うつもりはない。

わたしの二十歳頃の試行錯誤は、過剰適応だった。

でも、たぶん、生まれたときに割り当てられた性別らしくわかりやすく装い行動することが、一種の社会の通行証なのは間違いない。

 

わたしは透明な膜のこちら側に戻ってきた。

周囲からなんとなく浮いていて、そのへんの石ころみたいにそっけなく扱われる。

でも、この透明な膜の向こう側へはもう行かない。

たぶん一生。



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