k-zombie’s diary

ツイッターにおさまらないことなど

ノンバイナリーの日によせて

2.11 今日はノンバイナリーの日だそうです。

TLでそのように決まったみたいです。

 

今日はフラワーデモが予定されていました。

わたしはフラワーデモ関係の動きをあまり把握していないのですが、今月も開催されたのでしょうか。

このフラワーデモに先立ち、国際的な反トランスの動きがひっそりと確実にTwitterのDMを通じて巡っていました。

いわく、女子刑務所のなかに男を入れるなというアクションを起こそうと。そもそもトランス女性は男ではないんですけどね。

あまりにナンセンス。どうせなら刑務所そのものに反対しようとわたしは考えます。

刑務所に罪人として収容されてる人がなにかの被害者だったこと、属性の偏り、罪に収容という刑罰でほんとうにいいのか、そういうことを考えたいです。

 

Twitterではノンバイナリー差別に反対しますというタグも回っていました。

それに反応するかたちで、ノンバイナリー差別とかないじゃん、という言葉も散見されました。

その人たちにとっては、ノンバイナリーは存在しないのだと思います。

存在しないものに差別はできない、という理屈です。

でも、ノンバイナリーはいます。ノンバイナリーとアイデンティファイしているのかわからないけど、男女二元論社会の制度に適応できない人間が複数存在するのは事実です。

わたしもそのひとりです。

ノンバイナリーに対する差別を考えると、大きくニ種類の差別があるのではと思います。

ひとつは存在しないものとして否定される差別です。

もうひとつはオーソドックスな性差別です。男らしく/女らしくする規範は、シスジェンダーの人ももちろん苦しめますが、ノンバイナリーをもおおいに苦しめるものです。

 

ひとは、性別に関する情報が必要のない場面でも必要以上に相手の性別を認定し、その相手の性別によって態度を決める……ということを日常的にしています。

ですから、男/女の二元論に当てはまらない存在を見ると混乱し詮索せずにはいられず、揶揄し、ときには秩序を乱すものへ怒りさえ抱くのです。

そんな社会で、男/女に当てはまらない存在として存在し続けることの絶望と痛みが想像できないのでしょうか。あるいは存在するのは不可能なのではと思いつつ、どうしても既存の秩序に沿えないなにをどうしてもゴールは見えない……常に削られ続ける厳しい戦いです。

それでも、見えなくても存在しているのです。少なくともわたしは。

息を潜め、歯を食いしばり、ほほえみをつくり、ああもうだめだいやだと思いながら。


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ノンバイナリー差別、あなたはどのように考えますか?

 

ノンバイナリーがわからないジンのこと


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ノンバイナリーという言葉と出会ってからしばらく、それが結局どんなあり方なのかよくわからず戸惑っていた。

バイナリなトランスならば、ある程度の目指すべきルートはできている。

しかし、ノンバイナリーの場合は?

そもそも自分はノンバイナリーなのか??

いろんなひとがノンバイナリーと口にするが実態はそれぞれ大きく違うように思えた。

 

 

ノンバイナリーがわからないジンの企画を思いついたのはそんなときだ。

企画趣旨として

・ノンバイナリーがわからないというテーマで思いつくものならば、表現方法は自由。実際に、エッセイ、ラップリリック、詩、漫画、校歌(?)など多様な表現が集まった。

・広く頒布するのではなく、書いた人と書いた人が読んでもいいという相手に渡す限定公開の形をとること。

交換日記のようなものと説明した。

 

どうして上記の制限を設けたかというと、広く頒布されることによって、参加者へのプレッシャーになり説明的で防衛的な語りになり表現の幅が狭まり参加の敷居が高くなることを危惧したからだ。

残念ながら、大きく頒布するのをためらうほど、差別は間近にある。

わたしは、いろんなひとに参加してほしかったし、いろんなひとの原稿を読みたかった。

友人や知人、インターネットで募集して、数人の人が参加してくれた。

そして、とてもいいジンができたと思う。

参加してくれる人がいなければ確実に企画倒れになったいたので、参加者の方々には心から感謝しています。

 

ジンができてみて思うのは、やはりノンバイナリーがわからないということだった。

それでいいと思う。

重なる部分があり重ならない部分がある。

ノンバイナリーとしてのあり方があるのではなく、それぞれの人生を生きてるノンバイナリーがいる。

そして当たり前だけど、ひとは違うから語り口も表現方法も違う。

そのことをうれしく思う。

 

ジンのなかでも書いたけれどバイナリな世界にひとりで立ち向かうのはあまりに難しいことだ。息ができなくなってしまう。

だから、少し似ているけど違う他人同士で集まれる息のできる小さなセーフスペースができるといい。

わたしもそういう場所を作りたいと思う。

 

PS.読んだ人は感想を教えてくれるとうれしい。

 

 

 

自分のとりあつかい

ここ最近は全方位にがんばっており、がんばっている。

具体的になにをがんばっているかというと、自分の課題を見つけて傾向を把握して、どういう状況が苦手なのかを考えている。

それから体調にあわせて主治医に素直に白状して薬剤調整してもらった。

これできしねんりょの頻度を多少さげることができると思う。

 

苦手なことはたくさんあるけど、そのなかでも予測が弱いというのがあると思う。

予測していれば防げたミスが防げない。勘所の予測を立てられないので、やみくもにやって疲れるし、パニックにもなるし、ミスもする。

目的や意図の説明、見通しがあると、手順の逆算や順序立て、必要な材料の目算ができるので、ミスやパニックがかなり防げる。

見通しについてひとつひとつ、積み木を積み上げるように材料を覚えるのが性にあってる。

 

見て覚えろ、体で覚えろ……みたいな職人みたいなやり方だと、見通しや手順が染み込むのが遅いので、ミスが頻発し、パニックにもなるし、覚えることもできないので、やる気がないと誤解を受けることがある。

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なるべくゆっくり順序立てをしてやりたい。

そうであれる世の中だといい。

草稿

かなり長い間「なぜか自分の女性性を消したいという気持ち」「なのに男になりたいとはさっぱり思わない気持ち」でも「男性とみなされる方がマシな気持ち」のなかで混乱していた。

最近になってわたしはノンバイナリーという言葉を見つけたが、ノンバイナリーだと思っているかといわれる微妙ではある。

その言葉があったほうが上記の混乱が整理されるから、しょうがなく消極的にそれっぽい言葉が見つかったから、使っている、というのが実情に近い。

 

ノンバイナリーという言葉を使っていても、このバイナリな世界の中でみんなあり方はオリジナルで、手本になるような「こうすればよい」という姿はない。

孤独なのだ。

同じ人はいない。

性別欄 男/女/その他 でもない。

このことの孤独を見つめなければ、バイナリな世界のわかりやすさに「ノンバイナリー」という既存の秩序をすべてひっくり返すようなラディカルさは消えてしまうだろう。

わたしたちは違う。

でも手は取り合える。

違うことに希望を見つけなければいけない。

 

生きることが抵抗


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なぜ、親しい友人たち知人たちが死ぬ心配を常にし続けなければならないのか

わたしが心配性なのか?

いや、実際に亡くなってしまう人はいる

そのことを痛いほどわかってる

自分自身を生かすこともギリギリなまま、もう何年もそんな状況が続いてる

 

あらゆるものがわたし(たち)を切り刻みにきていて

ほんとうに生きるのがむずかしい

生きているのに追悼されなければいけない

メンタルヘルスは状態が悪くなってから何年経ったかもわからない

職を続けるのがむずかしく

古傷に何度も新しく傷つけられる

家族のバックアップも期待できず

日々苛烈な差別にさらされ続ける

 

でもいま、生きているから

生きようね

わたしは、あなたに死んでほしくない

 

いつも同じところにいる

わたしは「なに」なんだろうとよく考える。

わたしはわたしを説明する言葉を持たない。

 

まずわたしがわたしを理解していない。

次にこの性別二元論用の言葉や概念しか用意されていない世界に、性別二元論ではないありようを必要充分に語ることのできる言葉が存在していない。

 

言語がないということは、言葉で抽象概念に昇華し整理するということができないということ。これが自分で自分を理解できないことにつながっている。

そして、言葉で他者に説得なり納得なりさせることができないということ。

 

自分について語ろうとしようとすることは、手足を縛られたまま泳ぐようなことに感じる。

 

 

わたしは新しい仕事に就いた。

その職場で、毎日他人の性別をジャッジし書類に記入している。あらゆる書式に性別欄があり、それらは関連付けられて管理されている。

わたしがその仕事に就く何年も前から決まっていたルールで同僚は誰も疑問に思っていない。

毎日同じことを仕事で遂行していると、それが常識となっていき当たり前のことと疑問に思わなくなる。

他人の性別をジャッジするという、自分がされたら嫌なことが無意識化され、身に染みついていくのを感じる。

これが性別二元論の世界かと思う。

ときどき吐きそうになる。

 

わたしがわたしの存在をすり潰されないようにするのに、不特定多数の常識やルールを壊して変えないといけない。

それはきれいに整備された町並みの石畳をすべてひっくり返しボコボコにするのに似ている。

迷惑そうな顔をされ、理解不能と思われる。

そして、わたしはそれをする切実さはあるのに、なぜ切実なのかはわかるように言えない。

 

わたしは女性とみなされている。

そうみなされるのも仕方のない見た目をし、声をしている。

わたしに身体違和はないかもしれない。ほんとうはそれほど自分の身体や声が嫌いではないかもしれない。

けれどよく胸がなかったら?声が低かったら?と想像する。

もっと生きやすくなるだろうか。

なぜ身体違和がないかもしれないのに、こんなにも自分を変えなければいけないのではないかと考えるのかわかるだろうか。

言葉よりも雄弁なものが、たしかな証拠がほしいから。

女性とみなされたくないから。

 

……いや、違う。

また語り落とした。

わたしがフェムだった時代

昔わたしはフェミニンに装っていたことがある。

18~20歳ごろで、髪の毛を長く伸ばして多少の化粧もしてワンピースやスカートを日常的に着ていた。

そのころ、わたしは「大人にならねばならない」と考えていた。

当時のわたしにとって「大人になる」とは「シスらしくなる」ということだった。

 

実際、社会が求める「大人のふるまい」や「マナー」と呼ばれるものが、シス性への忠誠を示すことであることはしばしばある。

冠婚葬祭に就職活動などフォーマルな場になるほど、シス性を拒否するふるまいは子どもっぽく場違いなわがままに見えるだろう。

 

とにかく当時のわたしは、それまでの自分らしさを打ち捨ててシスに適応しようとした。

クローゼットの中にワンピースやスカートが並んだ。

悪戦苦闘しながら長い髪の毛を編み込んで、メガネをコンタクトにして、化粧をし「女性らしく」なると突然わたしの存在に気づいたようにする人が増えた。

それは奇妙な経験で、それまで路傍の石のような存在だったのに人間の形になったみたいな感じだった。

わたしを無視していたというかまるで存在に気づいていなかったような人がわたしに笑顔を向けて話しかけてくる。

目に見えない透明な膜が世界から取れたのかと思った。

しかし、わたしはやがて食事が取れなくなり、限界を迎えた。

ある日、なにがどうしても無理になり、長い髪の毛をばっさりと落としフェミニンな服を捨てた。

元の通りに、そのへんの小学生かかかしみたいな格好に戻ると、またある種の人びとの視界からわたしは消えたようだった。

まるで潮が引いたみたいだった。


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シスに適応しようとすると、対等で年相応の人間として扱われるのかと思う。

つまり中性的な装いをすると年相応に扱われないということだ(ついこないだは見知らぬ人に高校生に間違われた……!)。

 

もちろんシスジェンダーだって多彩なジェンダー表現の人がいるだろう。

フェミニンに装わない人はシスではない、と言うつもりはない。

わたしの二十歳頃の試行錯誤は、過剰適応だった。

でも、たぶん、生まれたときに割り当てられた性別らしくわかりやすく装い行動することが、一種の社会の通行証なのは間違いない。

 

わたしは透明な膜のこちら側に戻ってきた。

周囲からなんとなく浮いていて、そのへんの石ころみたいにそっけなく扱われる。

でも、この透明な膜の向こう側へはもう行かない。

たぶん一生。



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