ノンバイナリーという言葉と出会ってからしばらく、それが結局どんなあり方なのかよくわからず戸惑っていた。
バイナリなトランスならば、ある程度の目指すべきルートはできている。
しかし、ノンバイナリーの場合は?
そもそも自分はノンバイナリーなのか??
いろんなひとがノンバイナリーと口にするが実態はそれぞれ大きく違うように思えた。
ノンバイナリーがわからないジンの企画を思いついたのはそんなときだ。
企画趣旨として
・ノンバイナリーがわからないというテーマで思いつくものならば、表現方法は自由。実際に、エッセイ、ラップリリック、詩、漫画、校歌(?)など多様な表現が集まった。
・広く頒布するのではなく、書いた人と書いた人が読んでもいいという相手に渡す限定公開の形をとること。
交換日記のようなものと説明した。
どうして上記の制限を設けたかというと、広く頒布されることによって、参加者へのプレッシャーになり説明的で防衛的な語りになり表現の幅が狭まり参加の敷居が高くなることを危惧したからだ。
残念ながら、大きく頒布するのをためらうほど、差別は間近にある。
わたしは、いろんなひとに参加してほしかったし、いろんなひとの原稿を読みたかった。
友人や知人、インターネットで募集して、数人の人が参加してくれた。
そして、とてもいいジンができたと思う。
参加してくれる人がいなければ確実に企画倒れになったいたので、参加者の方々には心から感謝しています。
ジンができてみて思うのは、やはりノンバイナリーがわからないということだった。
それでいいと思う。
重なる部分があり重ならない部分がある。
ノンバイナリーとしてのあり方があるのではなく、それぞれの人生を生きてるノンバイナリーがいる。
そして当たり前だけど、ひとは違うから語り口も表現方法も違う。
そのことをうれしく思う。
ジンのなかでも書いたけれどバイナリな世界にひとりで立ち向かうのはあまりに難しいことだ。息ができなくなってしまう。
だから、少し似ているけど違う他人同士で集まれる息のできる小さなセーフスペースができるといい。
わたしもそういう場所を作りたいと思う。
PS.読んだ人は感想を教えてくれるとうれしい。