k-zombie’s diary

ツイッターにおさまらないことなど

人生がわからないと思いながら散歩をしている

春だ。

あたたかい。

なので冬眠から目覚めたクマのように森を徘徊している。

 

ここ最近は調子がよく、毎日夜に寝て朝に起き食事をし、なんらかの用事で外出するなどをしている。

用事がないときは、「ひま」という感覚があり、人生に思いを馳せていたりする。


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個人的な感覚だが、調子が悪いときは調子が悪いことでとても忙しくなる。

血液は鉛のようになり、縫いつけられたように布団から起きあがれない。

だから、「ひま」という感覚がない。

逆に言えば、「ひま」感覚の有無は調子のよさのバロメーターと言えるだろう。

散歩をしているとき、これが余暇というものか、と思う。



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心身に余裕ができたので、今後のことについて考えている。

もう十分休んだので動きだすときだろう。

今がわたしの人生の岐路というか転機になる可能性がある。

でも、人生の選択などわからないしどうすべきか誰かに相談するものなのだろうかなにもわからない、という戸惑いがある。

そこではた、とわたしには人生について考えたことがなかったと思い返すに至った。

 

いつも「いまこの瞬間」の短期間をどうやり過ごすのかということしか考えられず、長期的な展望など無いに等しかった。

人生をどうしたいとか、将来とか、そんなもののことまで考える余裕がなかったのだった。

目の前にある不安、焦燥感、自信のなさから追い立てられるように行けそうな場所に行く、というような消極的な選択をしてきたのではないかと思う。


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人生を考えるときに、様々な観点があるだろう。

そのひとつに、己のジェンダーアイデンティティ(いまだに謎)もある。

わたしはいま職探しなどをしているが、他人の身体のプライベートゾーンにふれるような直接介護職から離れようとしている。

なぜなら「同性介助」が前提とする強いシスジェンダー性とバイナリ性、ヘテロセクシュアル性に耐えられないから。

介護の本質である人と接すること、ケアのために観察すること、日々の生活を維持していくだけの生産性と離れた価値観は嫌いではなかったが、わたしはあの現場が自明にしている前提が根本から変わらない限りもう戻らないだろう。

このことを考えると、胸が痛くなる。

ひとが否応なしにその身体の最もプライベートな介助を他人に頼らねばいけないとき、安全とされるものは、結局はシスジェンダーかつヘテロセントリックな価値観に基づいているのだと思い知らされる。

わたしはそこで働いていたが働いていける人間ではなかった。

わたしが適応障害になるのもやむなしだったのかもしれない。


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