ここ数日家族のことを考えていた。
弟の配偶者が子どもを産み、久しぶりに弟に会って、弟の赤子を抱いた。出産祝いでお金とガーゼのバスタオルとよだれかけとガーゼのハンカチをあげた。そういえばガーゼの語源ってガザらしいね。手当て。
弟が親という生き物になりかけていて、ギョッとするような気持ちになった。
弟の配偶者は気を遣ってくれていたけど微妙に気になる言い方を毎回する。わたしとの距離感を測りかねているのかもしれない。もうしそうならわたしもだ。結婚式行けなくてごめんね。コロナ禍でもっとも規制が厳しいときということもあり結婚式行けない理由に「仕事で4人以上の会食を禁止されてる」(これは事実だった)と弟に伝えていたが、後で母親がそれを台無しにするようなことを言っていたことがわかり、この二人や親族の中でどういうふうに処理されているのか全くわからない。わたしが嘘ついてバックレたことだけは伝わってると思う。
弟は大企業エリートで、経済的なことから、価値観、カルチャーまで、どんどん離れていくのを感じる。
この弟は大人になっていくにつれて、親に対して「いい子」のムーブをする傾向が強くなっていて、わたしと表面上仲良くしてるのも親サービスの一環だと思う。
わかりあえない部分が大半だが、この弟が輝くようなシスヘテロ人生をやってくれていることにより、わたしが好きにやれている部分があるので感謝はしてる。
ジェンダークリニックの形式的なカウンセリングで家族のことを聞かれたが、「仲は悪くないですね」と答えた。
カウンセラーが復唱するのを聞いてそれは嘘じゃないが……と心のなかで言い淀む。
数日前、押見修造の『血の轍』を全巻通し読みしてしまい、動揺した。
『血の轍』を読んだ人はみんな「毒親マンガ」と言ってるが押見修造は「あのお母さんは毒親かどうかわからない」と言っている。『血の轍』は押見修造の自伝的な要素があり殺人などの展開はもちろんマンガ的な仕掛けだと思うが、心理的な描写はほとんど押見のそのままの心だと思う。
「毒親かどうかわからない」わたしもそういうふうに思ってる。二十代前半のとき一瞬だけカウンセリングに行って、わたしは家族のことを話し「それは虐待」とカウンセラーが口にし、ギョッとしてそれ以降カウンセリングには行ってない。『血の轍』で描写されてることは部分的にすごくわかるというところがあり、とてもいやだった。
悪い人たちではないが、わたしとは合わない。期待に添えない子どもでごめんねと思うが、ほんとうは微塵もごめんねとは思っていない。
微塵もごめんねとは思わない自分になれてよかった。
親とちゃんと別の人格になるまで長い時間がかかり、その間に引きこもりの期間や何度も自殺未遂があったが、その自殺未遂のおかげで親があまり干渉してこなくなったので、そういう意図があって未遂をしたわけじゃないけど結果的に功を奏している。
きょうだいが親にほぼすべてをオープンにして親と仲良くやっているのを見ると同じ環境で育ったはずなのにどうしてこうも違うのかと複雑な気持ちになるが、わたしはすべてをクローズして物理的にも心理的にも経済的にも距離をおいている今にとても満足している。
親に期待したり期待されたりの関係をしたいとはもう思わない。カミングアウトもしない。そういうのは親にわかってもらいたいという期待してる人がすることだから。
数年前に母親に「あなたがやれることはあなたの人生をやることだけです」と言った。それが言えてほんとうによかった。
大切なことはもう何一つ共有しないけど、遠くから親が自分の人生をやれることを祈っている。