k-zombie’s diary

ツイッターにおさまらないことなど

Nファッションの憂鬱

服のことを考えるといつも憂鬱になる。

わたしのようなホルモンをしていない人間には、髪型と服装くらいでしか、自分の自認するジェンダーを表現する機会がないが、わたしが着たい服はたいていわたしにはサイズが合わない。

 

服を探すとき

着ていて苦痛でないデザイン(フェミニンでない)

サイズがでかすぎない

高価過ぎない

着る機会があるか(月8日しか休みがないのでほぼ労働で着る服になる)

自分でケアできる素材か

という基準があり、そのどれもを満たすとなると選択肢はほぼないと言える。

ノンバイナリーのなかにはどのようなジェンダーの服も違和感なく着こなす人もいるらしいが、わたしは生まれたときに割り当てられた方の性表現の服を着ると吐き気がして泣くので着れない。おしゃれ以前に選択肢があるということは当たり前ではないのだ。

季節が変わるたびに何十というアパレルをはしごして結局買うべき服は見つからず、憂鬱で絶望的な気分になる。

 

服を脱いだ姿を「自分らしい姿」とは思わないが(身体違和あるし)、「自分らしい姿」になるための服なぞとうてい手に入らない。

最近はなげやりになって安い古着屋の100円の服とか250円の服とかを労働に着ていっている。決して好きではなく、妥協の産物。とても自己表現・自己肯定のファッションとは言えない。

250円の服は偶然にもみんな青ストライプ柄だったので、ファミマ店員のコスプレかなという気持ちをほんのり抱いた。

 

全然着たい服が着れないので服にはうっすら嫌悪感すらある。労働がシモの世話を含む肉体労働ということもあり「うんちがついてもいい服:略してうんち服」と呼んでいたこともある。

 

前にノンバイナリーの友人といるときにたまたま古着の安セールに出会って、友人とそれぞれ100円の服を一着ずつ買った。友人はいまだにそれを労働に着ていっているという。

それを聞いてすこしの慰めと友情を感じた。

 





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これがわたしにとってのリアルなノンバイナリーファッション。