数年前、悲嘆について学ぶ機会があった。
人は悲しいことがあったとき、2つのモードの中を行ったり来たり、使い分けながら生きる。
1、悲しみは一旦置いておき日常生活や事務手続きなど現実的な事柄に対処するモード。
2、感情的におもいっきり悲しむモード。
思うことがある。
悲しくてつらいことが多すぎるのではないかと。
いちいち悲しみや怒りを知覚し飲み込まれ手を止めていたら現実を乗り切っていけないじゃないかと。向き合ったら痛すぎるじゃないかと。
わたしが脆弱だから、些細なことを悲しいことやつらいことと捉えてしまうのかもしれない。でも、それにしても子供心に痛いことが多かった。
だから、わたしは自分の感情を深く深く海に沈めるようにすることを覚えた。そうすると、自分が人形のようになって、痛みは遠く、けれども身体は動くから「社会」には存在できる。
そのようにして、わたしは「なんだ。わたしの感情なんかないほうが、ずっとうまくいくじゃん」という学習をした。
けれど、それは間違っているといまでは思う。
わたしはずっと、最初にあげた1のモードで生きてきた。
これから必要なのは、2のモードの練習だ。
感情を沈めるのではなく、拾い上げて、適切に表現する練習をしている。
でも、方法がわからない。