k-zombie’s diary

ツイッターにおさまらないことなど

昔の日記がエモい

昔書いていたブログがエモい。ただそれだけの日記

以下、いくつかの記事から抜粋。

今思うと、「それは違う」と言いたくなるようなところもあり、「君は頑張ってるね」と言いたくなるようなところもあり。

 

 


「からだとは、なんだろう。
ことばと、対になっているものなのだろうか。

わたしは、よくことばで、なにかを打ち立てたり、自分を縛ることをしてしまう。
けれども、ほんとうは、ことばとか、ことばが織りなす概念とか、嫌いで、ことばを必要としないせかいにいきたいと、常々思っている。
ことばは、たいへんややこしく、また巧妙にわたしを束縛する。
私の細胞の隅々にことばは入り込み、小さな小さな楔をあらゆる所に打ち込む。そうして、からだを、わたしを理性的に美しく支配し、コントロールしようと目論む。ナノロボットみたいに。
しかし、しばしばことばの建前や理想に矛盾するからだは、ことばに反発をする。
からだの反発を受けたことばの小さな楔は、腐り、錆びて、血液中に、からだ中に毒を撒き散らす。
妄想とも、幻覚とも、幻聴とも言えないものに、日夜わたしは苛まれる羽目になる。しんどい。

からだは、からだだ。肉である。定期的に、月経が来る。
口があって、食道があって、胃があって、その他諸々を通り、排泄する器官がある。
多くの感覚器官を有し、ことばを精製する脳があって、骨があって、動かす手足がある。
息をする。吸って、吐く。心臓は、絶えず動いている。偉い。
わたしは、このからだとの付き合い方が、わからない。
まず間違いなくわたしの肉体であるのに、要らない社会的な文脈にこのからだは巻き込まれている。わたしの子宮や、胸を利用してやろうと目論むやつらがいる。毎日、わたしと同じかたちのからだが、そこかしこで利用され、消費されている。社会的な文脈とは、つまりことばで構成されている。
わたしのからだは、おんなである。

おんなのからだは、男の欲望を受け入れる「肉の洞」だ。
わたしは、「肉の洞」はいやだ。
「肉の洞」であるくらいなら、このからだを切り離してしまいたい。
そうして、わたしはことばの無臭さ、潔癖さ、なんでも打ち立てられるような利便性に依存する。からだを切り離したら、ことばに頼るほかない。そして、外側の社会的な文脈のことばによる支配に対抗するために、内側のことばの新しいルールによって、自らのからだを書き換え、支配しなおす。外側の勝手なルールに支配されるくらいなら、内側のわたしのルールで支配する方がましだろう。
しかし、先に言ったように、ことばに頼りたくはない。
ことばは、常にわたしを支配するものとしてある。
ほんとうは、支配するより、表現するものとしてのことばが好きなのに。


わたしは、わたしのからだを、様々な束縛から解放させたい。
社会的な文脈における意味付けから、性的な視線から、赤ん坊を産むことを強要されることから、母の役割を期待されることから、ペニスを愛する義務から。その他、有象無象の束縛から。
そうしたら、わたしは、わたしを、わたしのからだを拒否しなくて済む。
しかし、束縛からの解放は、なにによってなされるのだろう。わたしはこの社会から逃げ出すことができない。
ことばによって対抗することは、新しく支配しなおすことだった。
どうしようと思って、はた、と気付く。
わたしは、自分のことばでどうにかする手段しか、知らないのだった。深く悩んだときに、誰かを必要とすることを頼ることを思ってもみなかったのだった。
わたし自身のからだをただ抱き締め、肯定すること。それは自分一人ではできない。
誰かに抱き締めて貰わなければならない。そして、わたしも抱き締め返すことをしなければならない。
しかし、それは親密な愛の発露としての行為に基づくものでなければ、わたしは満足できないだろう。それから、「肉の洞」にお互いがならないような抱擁でなければ、何事も肯定できないだろう。
意味付けを為さない抱擁。お互いが相手に好意(≠性欲)を持ち、お互いが触れあいたいと思ったときで、かつ相手を尊重する気持ちに溢れた抱擁。
それは、なんなのだろうか。あり得るのだろうか。これを求めるのは、わがままなのだろうか。このような抱擁をしたいと思っても、わたしの独りよがりにならないだろうか。
ややこしくずるいことばを排して、肯定したいし肯定されたいだけなのに、非常に難しいことのように思われるのは、何故なのだろう。
素直に、シンプルにからだと仲良くやっていきたいだけなのに。」

 

 

「わたしには、妹がいる。
妹が、幼児だったころ、ふたりで積み木遊びをした。
わたしが積み木を高く積み上げる。妹が倒す。わたしが積み上げる。妹が倒す。
妹は、積み木を倒すことが好きだった。わたしは妹のために、積み木を積んだ。
積み木とは、できるだけ高く積んで、倒すためのものだ。

ときどき、いま自分が大切にしているものを、台無しにしたくなる。それは、せっかく高く積んだ積み木を、倒すようなものだ。

 積み木のタワーを高いまま残そう、と思えないのはなぜだろう。なぜ、倒したくなってしまうのだろう。むしろ、はじめから倒すために、積んでいる気がする。あんなに一生懸命に積んだのだから、永遠に残そうと思っても、不思議じゃないのに。

 それを維持するためのたゆまぬ努力がなければ、すぐ崩れさってしまうような脆さと尊さを併せ持つものがある。維持しようと思わなければ、維持しようとしなければ簡単に無になってしまう。おもに、人間関係のことだけど。

 信頼をなくせば取り戻せないし、距離を置けばそのまま疎遠になり、簡単に絶縁状態になったりする(疎遠になるのは、わたしが貧しい人間で、必要な努力を怠っているせいなのかもしれない)。

 大切だ、と常々染み入るように思うけれども、矛盾する衝動が、とつぜんわきあがって、自分でびっくりして、そうして驚いているあいだに、瞬く間にその衝動はなりを潜める。花火みたいに激しく、一瞬だ。

 小野不由美の小説『屍鬼』に、大切なひとの死をコントロールしたいのなら、自分が殺すしかない、という内容の台詞がある。

大切なもののを終わりをコントロールしたいのなら、自分で壊すしかない、のかもしれない。

自分の意思とは関係なく、大切なものが誰かに、なにかに壊されてしまうなら、あるいは大切なものを最終的に憎んでしまうくらいなら、己でその終わりを選ぶ……という考え方。

しかし、大切なものを、大切だから壊すなんて、あまりにもかなしい。わたしは、大切なものを大切にし続けたい。
壊したい、投げ出したい、いらつき、逃げ出したい、その衝動はわたしの一部だ。否定できない。しかし、それでも。それでも、その衝動に、負けたくはないんだ。

高い積み木のタワーは、わざわざ倒そうとしなくても、ぐらぐらと危なっかしげにゆれる。ぐらぐら、ゆらゆら。
アンビバレントな衝動は、戸惑いの別のかたちなのかも。ああ、いまにも倒れてしまいそう、こわい、どうしよう…ならばいっそ……という戸惑い。
ゆれているのは、タワーじゃなくて、わたしかな。

戸惑いをどうすればいいのか、いつもよくわからない。いっそ、戸惑わなくなりたいと思うのだけど、そうしたら大切な変化を見逃してしまうだろう。
ゆれも、戸惑いも、そのことの尊さを、絶えずわたしに思い出させる。
戸惑いを、どこへ運んでいくか。ゆれる足場のなかで、どうしていくか。逃げないで、将来へ、あるいは大切なひとへ開かれた場に運んでゆけるようになりたい。

うまく言えない。まとまらないね。とりあえず、ゆれてるまいにち。 

 

 

 

まなざしをまなざしたい 10/28/2012

冬というのにはまだ早いけれど、あさ自転車をこいでいると空気の冷たさに鼻がツンとして、そろそろ秋も終わるのだという気がする。

わたしの実家は、日本海側にあり、雪が降るのはまだまだ先だが、この季節になると晴れ間が少なくなり、町全体が急速に薄暗くなる。
ひかりの彩度は落ち、モノクロームの世界にどんどん近付いていく。世界がモノクロに近づいていくと、毎日非現実的なさみしい寒色の空間に来てしまったようで、からだの内側がなんだかぱさぱさに乾いていく感じがした。

いま、住んでいる土地は、冬でもよく晴れる。しかし、かわりになんだかとても底冷えがする。
高校時代、毎日一緒にお弁当を食べていたひとが「冬になると人肌恋しくて、誰かに抱きつきたくなる」と言っていた。わたしは、高校生当時、特にそのことばに共感もせず、ただ聞き流していたが、今ならその意味がわかるような気がする。
さむいと、さみしい。さみしいのは、さむい。こころが乾燥する。

さいきん、ひとの目をじっと見つめるということをしていない。
まえは、よく見つめていた気がするのに、いつからしなくなったのだろう。
わたしは、いままで好きになったひとの目を、よく覚えている。
唐突に、じぃっと相手の目を見つめて、相手が噴き出すまで耐える。そういう、突発的なにらめっこをしていたせいだ(ほんとうは、にらめっこではなく、別のことを言いたかったのだけど)。
あの子たちの目は、ほんとうにきれいだった。理屈じゃなく、色とか造形の問題でもなく。

さむくなってきて、皮膚の表面が冷えるだけではなく、もっともっと内側の、胸のあたりで乾いて冷たい風がぴゅーぴゅー吹いている気がする。
からだの中が空っぽなので、こころのなかは、凪いでいて平和なものだけど、それだけ。さみしい。
それで、さいきんひとの目を見つめていないのは、わたしのなかの一種の危機なのではないだろうか、という思いがむくむく湧いてきた。
はぐをしたい。みつめたい。あいたい。
とうぜんの欲求。とうぜんの欲求を、とうぜんのように言えなくて、情けない。
なにをあたえることができて、なにをもとめてもいいのか、いつもわからない。
このままだと、逃げて、代替を求めてしまいそう。しかし、それはわたしのもっとも嫌悪する行為。
ひととは、プラスになる行為をしたい。マイナスを埋める行為ではなく。
だれかを、代替にするということ。それはつまり、だれかを取り換え可能な、なにかに貶めてしまうということ。マイナスを埋める道具にしてしまうこと。
それだけは、したくない。そんなの、もっとさみしくなって、傷つけあって、切ないのが目に見えているから。

どうしたらいいのか。こたえは、とても簡単で、素直になること。なのだけど、それがなかなかむずかしい。
いちど徹底的に自尊心が貶められてしまうと、素直な欲求に自信が持てないのかもしれない。
なんにせよ、大切にしたいものを大切にするためには、つよくならなければならない、自分を真っ直ぐ肯定できるようなつよさをもたなければならない、と日々実感している。」

 

 

 



幼いときから、わたしはやせっぽちのちびだった。
いまは、平均身長くらいあるけれど、昔も今もやせっぽちなのは変わらない。
第二次性徴前は、そのやせっぽちの身体にぶかぶかのTシャツを着て、短パン、ショートカットでいるのが好きだった。その格好でいると、自分から性的なにおいを感じずに済んだし、とても自由だった。
「男」を誘惑などしたくなかった。「男」とは、なるべく遠ざかっていたかった。
「男」はわたしの容姿を品評し、しばしば嘲りからかいの対象とした。「男」は、基本的にわたしに対して失礼だった。
わたしは、やさしい女の子の友達と親密な関係でいるのが好きだった。
それは、性的な意味でなく、もっと安心できる親密な関係性だった。もちろん、女同士でもいやなこと(嫉妬・ヒエラルキー)があったけれど、少なくとも一方的な容姿の「値付け」はなかった。「値付け」をしてくるような人からは男女問わず距離をとったけれど、やっぱり値付けてくるのは、「男」が圧倒的に多かった。

わたしには、男からの性的承認を必要とする心がわからない。
いまも昔も、男から性的に欲情されたいとは思わない。
わたしの価値に、男からの欲情されるかどうかは関係なく、また欲情されたらキモチワルイと感じてしまう。
わたしは、わたしなのだ。外部からの価値づけにおいて、わたしの存在を脅かされたくないし、わたしの乳房や膣を利用されたくはない。
また、わたしは、性的な行為が好きではない。性的な行為をしたことはあるし、その快楽については否定しない。快楽自体は、よいものだろう。
だけど、わたしは、セックスが苦手なのだ。
セックスは「わたしがわたしでなくなる」感覚をもたらす。わたしが普段、考えたり、感じていることがまったく無意味になり、わたしはただの肉の塊になり下がる。セックスによって、普段のわたしは死に、存在否定が起きる。いつも唐突に起こる原因不明の体調不良に耐えながら、必死に保っている理性、誠実であろうとしている努力、いきようとしている努力、それがすべて無意味になる。それも、他者の手により。
それが、堪えがたい苦痛なのだ。恐怖だ。
しかし、普段のわたしが死ぬことに対して、頓着しないよう、開き直れば特になにも思わず行為が出来てしまう。
たいへん厄介である。
セックスについて、まじめに考えると、必ずと言っていいほど、吐き気がする。泣きわめきたくなる。
出来れば忌避したい。でも、やろうと思えば、心のスイッチを切り替えれば出来てしまう。わたしにとって、セックスとはそういうものだ。
わたしは、手をつないだり、添い寝したり、キスしたり、ハグしたり、そういうことが出来たら、それで十分なんだ。そういうふれあいが、だいすきなんだ。そういうふれあいを、たいせつにしたい。」