k-zombie’s diary

ツイッターにおさまらないことなど

冷めた湯舟から出ることができない

タイトルのとおりである。現在、もはや湯というより水に近づきつつある湯船に浸かりながらこれを書いている。

 

今日は早番だったのでまだ日の高いうちに退勤することができた。睡眠時間が約3時間だったが、乗り切ったのでよしとしよう。

帰宅中、よく晴れて空は青くツツジの花はピンクに輝いており、依然として世界が鮮やかできれいなことに唖然としていた。あまりに天気がいいのでベランダで本でも読もうかと思ったけど寒かったので5分で退散した。

室内でロッキングチェアに座り電気毛布をひざ掛けに岩波「思想」を読もうとしたが、今度は心地よかったので寝落ちした。睡眠時間3時間である。致し方ない。読書とは難しい。

 

今はブログが書けるみたいだ。アウトプットの時期なのかもしれないと帰宅中にぼんやり考えた。ろくなインプットをしていないのに、アウトプットしても悲惨なだけなような気もするが気にしない。

 

昨日日記に過去を思い出してると書いた。

高校生のころのわたしは毎日約千文字の日記を更新していた。個人サイトで。毎日20〜30アクセスくらいあり、奇特な人もいたものである。それまで文章というものを書けたことがなかったが、その頃の日記ではじめて書くことを覚えはじめた。

それに詩も書いていた。詩はずっとやっていて、中学生のころから大学生のころが一番作っていた。最近はあまり作らない。

ひょんなことで昔の詩のなにやらのリンクをTwitterでつぶやいたら、見てくれた人がいてずっと覚えていてくれていた。不思議な心地がする。

 

2月から絵日記をやっている。言葉をやるのが疲れてうんざりしたのもあったし、心配で悲しいことがありそれを忘れたいのもあった。今は当初の目的を忘れ、習慣になりつつある。

言葉はひとつの行為だなと思う。表現手段として代替可能とは言い難いかもしれないが、言語の世界の外にも世界と人はある。言葉を行為としてとらえきれずに、あって当たり前、使えて当たり前、唯一無二の手段だと思っていると落ちる落とし穴がある。

言葉という行為をずっとやっているのは疲れるが、私はなぜかTwitterに常駐してしまう。

結局ところ言葉と他人に飢えているのかもしれない。