わたしは一つの本にだけ集中することができない。あっちをつまみ、こっちをつまみ、というふうにどれもこれも中途半端に読む。
そんなふうに同時進行で読んでいると、わたしのなかで勝手につながるものを見つけることがある。
今日は、ふたつの詩のことをぼんやり考えていた。別の作者、時代も国も違う。
けれど、二人とも風のことを書いている。
「やあ、羊飼い君」フェルナンド・ペソア(筆名 アルベルト・カイエロ)管啓次郎訳
「やあ、羊飼い君、
道端にいるきみ、
吹きゆく風はきみになんていう?」
「風です、吹いています、
以前にも吹きました、
これからも吹きます、とね。
あんたにはなんていう?」
「それよりはずっといろんなことだよ、
他にもいろんなことを話してくれる。
さまざまな記憶やさびしい懐かしさ
かつて起こったことのないあれやこれやも」
「あんたは風が吹くのを聞いたことがないね。
風はただ、風のことだけを話すんだ。
あんたが聞いたのは嘘ばかり、
そしてその嘘はあんたの中にある」
「ぼくの時(5篇)」松村栄子
(略)
風が何かを詠っている
ひととき
柔らかな四肢を樹間に抜いて
何か
ひどく大切なことを告げようと
風が
風が身を投げだして
詠っている
僕にはそれが
わからない
(略)
松村栄子の「僕のとき」で風について書かれているのは2篇目である。5篇あるが、他の編についてはここでは省略した。
詩について解釈の仕方も文脈も時代背景もなにも知らない。だからこれはわたしが勝手に並べただけ。
人は風になにかを見出したくなるものなのだろうか。
Twitter依存なのでなんでもTwitterで説明してしまうけど、あるつぶやきに対して「なにも読めていない」と思うリプライがつくことがある。そういうときはたいてい、リプライを送った人の心のうちにすでに答えやおそれがあり、それを刺激するようなつぶやきに反応してしまっているのである。
つぶやきは風に似ている。
なにかを読めたと思うのは嘘かもしれない。すでに自分のなかに蓄えた解法やパターン、おそれ、劣等感を投影して「読めた」と錯覚しているだけなのかもしれない。
ペソアは風に投影するものを嘘だと断じる詩を書き、松村は風が詠っているものを聞こうとして聞こえないという詩を書いている。
どうやったら箱の外に出られる?自分のフレームの外にあるものが見えるようになる?
純粋に「風のことだけ」を聞くことができるようになるのは可能だろうか?
わたしは無理だと思う。
でも、絶望もしていない。
他者のことを自分という歪んだフレームを介して理解する。そのまままっすぐに理解することはできない。少し歪んだ答えが出てくる。それをわたしは口にする。
他者から応答があるとき、「すこし違うよ」と言われる。わたしは自分の歪みに気づく。
その歪みこそがわたしの形をしている。
コミュニケーションとは、その歪みやズレを少しずつ発見していく作業に似ている。
歪みやズレこそが、わたしやあなたを個たらしめるものだと思う。
できれば、そういったものを発見できる会話ができるようになりたいし、そういう関係性を作っていきたい。