友人である水上文さんの同人誌
『永遠だ、海と溶け合う太陽だ』
https://booth.pm/ja/items/2248859
に参加させていただいた。
私が参加したのは、座談会「女は女に人生を賭けられないのか?」
そしてかつて好きだった人のことを思い出しながら書いた「かつて魔女だったあなたへ」の寄稿。
水上文さんが新しい同人誌を出したいと思っていることは、知っていた。
けれど寄稿してみないか、という誘いがあっとき、率直に言って驚いた。プレッシャーにも感じた。私は作文が苦手である。義務教育期間、作文の宿題はできうる限りバックレたほど苦手である。読書感想文を提出できたことが一度もない。かといって漫画も描けない。
さて、どうしたものだろう?
わたしがなぜプレッシャーに思ったか、それは座談会のなかで話したことと関連がある。
NHKのドキュメンタリー「女7人おひとりさま みんなで一緒に暮らしたら」のなかで取り上げられた、同じマンションに一人一室ずつ買って、毎日寄り集りさまざまなトピックについて親しく言葉を交わす知的な老齢の女性たち。
https://www6.nhk.or.jp/special/sp/detail/index.html?aid=20181228
しかし、あるとき一人のメンバーが病気で入院してしまう。彼女は同じマンションの仲間たちの面会を拒絶する。人は老い、病を得る。知性・思考力というものは健康な身体・精神を前提とするもので、具合の悪さ、痛さがあると、それだけで以前のように思考することが難しくなってしまう。
彼女は、歳を経ても知的で独立した女性である友人グループに気後れし、深く考えることが難しくなった現在の姿をさらすのをおそれたのだ。
この同人誌を出した友人たちのことを、わたしたちはクラス会と呼んでいた。大人になってから出来た友人。永遠の放課後に教室でおしゃべりをするような関係性。属性がバラバラなので、ある程度の選別が入る高校や大学の教室ではなく、(公立)中学校の教室を思い浮かべる。
一見接点のない私たちをインターネットでつなげたのは、言葉である。
そして、同人誌に寄稿するということは、ある一定のクオリティ以上の文章が書けなければ話にならないのである。
言葉でつながった関係性。
言葉のことを考えると、とても難しい気持ちになってしまう。
うまく言葉を組み立てられなくなったから、親しい友人の面会を拒絶しつづけたあの老齢の女性。
事故や脳血管障害のせいで、ほんの数個の限られた語彙のみを残して言葉を失ってしまった人。
生まれたときから死ぬまで言語でのコミュニケーションを第一としない(できない)人びと。
わたしは、言葉でのやり取りに依存しているけれど、依存するのと同時におそれやプレッシャーを覚え、劣等感や宛先不明の怒りすら抱いている。
知性を求めること、言葉がうまいこと、よりよい言葉を求めること、磨き上げられたピカピカの文章、それは権力志向と思えてならない。そして、とても弱い。言葉は、ある日、ある一瞬で失われてしまうかもしれないものだ。
あえて言うなら、わたしは「賭けられるか?」ということよりも、わたしたちはなにでどのように繋がり続けていられるのか?の方が切実だった。
しかしながら、座談会はひとりの参加者の率直な「わからない」からはじまった。
座談会そのものの感想については、「わからない」と言ってくれた蛍ちゃんの書いた感想を読んでほしい。
http://revolutionary-girl.hatenablog.jp/
わたしたちは話し合った。一回話して終わりではなく、何度も話し合った。6時間おしゃべりしたのを録音し、文ちゃんが文字起こしし、共有し、推敲し、共有し、推敲し、共有し……そうするなかで録音当初とはまったく別のものになっていった。
男並みの話は、最初は入っていなかったと記憶している。
わたしたちは言葉をなくしても(言葉や思考力が変質しても)友人でいられるだろうか?言葉という権力の呪いから出ることができるだろうか?
(推敲という「言葉という権力から逃れる」のと逆行する方法で)「男並み」の節が座談会に入り、「逃れる」ための入り口を発見したような気がした。
座談会のなかでは、「友情は努力・気合・根性」というフレーズが出てくる。
わたしはこの本を一緒に作った人たちのことを友人だと思っているけれど、いまこの瞬間にもある種の緊張関係をはらんでいると感じている(緊張関係があるのは悪いことじゃない。変化への刺激になるからね。変化しないものは滅ぶだけ)。
わたしに必要な……そして友人に期待したい「努力・気合・根性」は、言葉から降りることを模索することかもしれない。
それは不可能ではないと信じている。