k-zombie’s diary

ツイッターにおさまらないことなど

馬鹿で愚図でのろまと言われていた話。

タイトルのように罵られていたのはそんなに昔のことじゃない。とゆーか、一年前の話だ。

職場で行動がめちゃくちゃになってしまった人がいて、その人によくタイトルのようなことを言われていた。

 

でも、思い返してみれば私の人生ってわりとずっとそのような意味のことを、ときにストレートに、ときにやんわりと言われ続ける人生だった。

とゆーのも、子どもの頃からわたしは言語理解能力はそこそこあるが、なにか作業をやらせると人を苛つかせるレベルでのろくて手際が悪かった。

言語理解能力がそこそこあるというのがやっかいだった。

話してみると頭の出来はそこまで悪くないように思われるが、作業をやらせてみるとあまりに出来ない。わたしと相対した他人は、わたしのこのちぐはぐさをうまく飲み込んで消化することができなくて、そこに己への悪意すら読み取ることがしばしばだった。わたしに悪意は全くなくて、ただ単に能力が凸凹していて、愚図でのろまで馬鹿であるだけだった。現実は厳しい。

この結果は成人してから受けた心理検査でも裏づけられてしまった。特に生きやすくなったわけでもなく、わたしが確信を深めただけだった。

 

「なんでできないの?」と問い詰められるが、そこにある答えは「わたしが愚図でのろまで馬鹿です」でしかなかった。最終的にそう言わされたことも何度かあるが、できれば問い詰めないで欲しかった。ただひたすらに不毛なので。

もう少しわたしに度胸があり立場も強かったら、「お前の世界が狭すぎるせいだ」と言えたかもしれない。まあ、言わないけど。

 

解決方法は特にない。他人がわたしに耐えて慣れてもらうまで図太く待つか、わたしが適応するか、その前にわたしが死ぬかの三択である。最近は死にたくないと思っているので、実質は二択である。

ああ、困っちゃったな。言語理解能力がそこそこあるといってもしゃべりや作文で身を立てる立場にないので、この険しい二択から逃れられる日は来ない。

ふだんはつらいから忘れてる。

今日は久々に思い出しちゃった。

現実は厳しいね。

 

冷めた湯舟から出ることができない

タイトルのとおりである。現在、もはや湯というより水に近づきつつある湯船に浸かりながらこれを書いている。

 

今日は早番だったのでまだ日の高いうちに退勤することができた。睡眠時間が約3時間だったが、乗り切ったのでよしとしよう。

帰宅中、よく晴れて空は青くツツジの花はピンクに輝いており、依然として世界が鮮やかできれいなことに唖然としていた。あまりに天気がいいのでベランダで本でも読もうかと思ったけど寒かったので5分で退散した。

室内でロッキングチェアに座り電気毛布をひざ掛けに岩波「思想」を読もうとしたが、今度は心地よかったので寝落ちした。睡眠時間3時間である。致し方ない。読書とは難しい。

 

今はブログが書けるみたいだ。アウトプットの時期なのかもしれないと帰宅中にぼんやり考えた。ろくなインプットをしていないのに、アウトプットしても悲惨なだけなような気もするが気にしない。

 

昨日日記に過去を思い出してると書いた。

高校生のころのわたしは毎日約千文字の日記を更新していた。個人サイトで。毎日20〜30アクセスくらいあり、奇特な人もいたものである。それまで文章というものを書けたことがなかったが、その頃の日記ではじめて書くことを覚えはじめた。

それに詩も書いていた。詩はずっとやっていて、中学生のころから大学生のころが一番作っていた。最近はあまり作らない。

ひょんなことで昔の詩のなにやらのリンクをTwitterでつぶやいたら、見てくれた人がいてずっと覚えていてくれていた。不思議な心地がする。

 

2月から絵日記をやっている。言葉をやるのが疲れてうんざりしたのもあったし、心配で悲しいことがありそれを忘れたいのもあった。今は当初の目的を忘れ、習慣になりつつある。

言葉はひとつの行為だなと思う。表現手段として代替可能とは言い難いかもしれないが、言語の世界の外にも世界と人はある。言葉を行為としてとらえきれずに、あって当たり前、使えて当たり前、唯一無二の手段だと思っていると落ちる落とし穴がある。

言葉という行為をずっとやっているのは疲れるが、私はなぜかTwitterに常駐してしまう。

結局ところ言葉と他人に飢えているのかもしれない。

 

 

全然眠れない

全然眠れない。それは労働時間の不規則さのせいでもあるし、こんな時間にスマホを見ている自分のせいでもある。

最近は、過去を振り返ってる。人と会って新しい刺激を入れることができないからである。人はいいものですね。自分じゃないところがとても良い。人間は基本的に苦手で疲れるけど、たまに苦手じゃないかもと思える人がいて、そういう人のことは友だちと呼んでもいいのかもしれない。相手の了承がなければ友だちと呼ぶのは躊躇われるが、わたしが勝手に好きと思うくらいは許されるだろう。

 

過去を振り返ると、砂漠のような記憶がある。それは私の過去が特別に荒廃しているという意味ではない。私の海馬の性能があまり良くないので記憶が砂漠のように風化しているのである。

砂を掘り埋もれたエピソードを拾う。エピソードごとのつながりも順番もあまり覚えていない。遺跡発掘とほぼ一緒で出土した土器(つまりエピソード)から推測するしかないのである。

かと思えば、ずっと忘れられずにいる恥ずかしい記憶、手痛い失敗、苦い記憶、そんなものがときと場所を選ばず急浮上して息が詰まることがある。

他人の記憶は違うのだろうか。よく整理された資料館のように、いつどこでだれとどのように、を順々に思い出すことができるのだろうか。

 

わたしを嫌うことをやめる試みをはじめてから3年が経ったはなし

先日ふと気づいた。

わたし、「#きょうの自分ほめ」を始めてから3年くらいたってるんじゃない?

 

#きょうの自分ほめ

とはわたしがTwitterで作ったハッシュタグである。

主にわたしが毎日のささやかな自分ほめをつぶやいてるだけだが、たまにフォロワーさんもつぶやいてる。

このハッシュタグは、どんな些細なことでも自分のほめられるべきところをひり出して、こじつけだろうがなんだろうが無理やり自分を肯定する趣旨のものである。

元気がないときは、「生存してる」とかだけのときもある。

ほんの少しでも自己肯定感がアップしたら儲けものである。

 

このハッシュタグを作ったきっかけは、わたしが子どもの時分から自分に対してダメ出しをするのに忙しく、自分のいいところを全く見つけようとはしてなかったことに気づいたことにある。

なぜだかわからないけど、自分のことを嫌うのに必死で、愛そうとはしてなかった。

だからこれまでと正反対のことをしようと思い立ったのである。

 

極端なダメ出しをするのに、自分をほめない。他人にほめられても信じない。これは非常によくない。バランスが悪い。

 

自分ほめタグは、基本的に毎日やるものとして作ったが、数日開いてもとくに気にせず思いついたときに気ままにやるようにした。

義務にしたら、できなかったときそれが自分への責めにつながるからである。

ふぁぼもいただくがあたたかい応援だとおもって、数もあまり気にしないようにしてる。あくまで自分による自分に対する承認の試みであり、他人からの承認はオマケだからである。

 

 

それで3年やってみた感想。

環境が変わったのも影響してるだろうけど、自己肯定感はたぶんアップした。

自分へのダメ出しの習慣が減った。 

 

効果は、(わたしには)あった!

 

 

ところで、自分ほめのことを「すき」と言ってくださる方もいてほんとうに不思議。わたしがわたしのために勝手につぶやいてるだけなのにな。

内容もほとんど家事とかだしエンターテイメント性はとくにない。

 

 

6年前の日記〈私の身体は私のもの〉

6年前の日記をサルベージ

 

 

 

 

2014-06-25

私のからだは、私のもの。

※この記事はいちど公開した後苦情があり、一部削除・編集したものです。

 

 ここ数日、女体持ちにはしんどいニュースが多い。

都議会の塩村議員へ向けた、「結婚しないのか」「産めないのか」等の性差別的なヤジ。

明大テニスサークルの飲み会で、女子が集団昏倒し、薬物混入・強姦未遂が疑われる事件。

安倍総理の「女性活用」「sine!」合計特殊出生率の数値目標などなど……。

 こういうニュースがあるたびに、私は自分のからだ:すなわちXX染色体と、女性器と、子宮と、乳房があるからだの持つ社会的な意味、自分のからだがどう見られているかを意識せざるを得ない。

 

 私には、性嫌悪がある。だから、セックスも苦手だ。することもあるけど。エロい目線で私のからだを消費されることにとても敏感で、いつもいつもエロをどうやって無効化するか、ということばかり考えている(理想はエロくないふれあいです)

 そして、自分の乳房がとてもとても嫌いだ。第二次性徴が起こり、自分の胸が膨らみ始めたとき、なにかとても大きなものを失った気がした。女らしい格好が苦手で、いかにメンズ服を着こなすか、みたいなことを考えている。しかし、私は「男になりたい」とは思わない。私にはFtM的ではない。

 

 私の性嫌悪・身体嫌悪は、おそらく「女体に纏わされる性的ファンタジー」嫌悪なのだと思う(あくまでも「と思う」と言うレベル。確証はない)。なかでも乳房は、女体の性的ファンタジーで非常に象徴的な身体の部位だから、どうしてもゆるせない。毎朝毎晩、胸が引っ込んで平らになってくれないかと願っている。

 私が望もうと望まなかろうと、私の意志とは関係なく、私のからだは「女」と位置付けられてしまう。私のからだは、「女」以前に、私のからだなのに。ただの肉体なのに。

 

 私は「自分のからだには、ただの肉体であるという以上に何の意味もない。エロとか関係なく、ただの肉だ。どんな部位にも本来性的な意味はない。からだはからだでしかない。私のからだの一部が膨らんでいようが、関係ない」と自分に言い聞かせることで、やっと自分のからだを受け入れることができる。そう思うことでしか、自分のからだを好きにはなれない。

 なので、私はよく自分の胸を指して

「ただの肉だよ」

 と言う(それは、私にとってとても大切なことで、自分のからだへのプライドを取り戻す、決意表明みたいなものだ)

 そうやって、私は私のからだの性的な意味を無効化して、やっとの思いで自分のからだを受け入れようとしている。けれど、そんな私の葛藤は周りの人間にとっては、知ったことではないのだろう。周りから見ると、私は依然として「女」だし、すなわち性的な文脈に乗せられ、性的に評価・価値づけられてしまう。あるいは、私のからだは私のものだとも思ってない人がいる。

 たとえば、相手はほめているつもりでも「この胸がいいんだよー」とか言われてしまうと、私のからだへの性的な意味づけを強化して、性的な意味の文脈で私の胸を「評価」をされているようで、絶望的な気持ちになる。

 それは、私のからだの主体性、私のからだの肯定的な文脈を全否定するような、私にとって非常にショッキングな出来事だ。私が自分を肯定するために私のからだに付与した「性的な意味などないただの肉」という意味を否定して、周りから見たエロ文脈のなかでの「性的にとても良い」という意味を優先されるということで、私自身の肉体に対する主体性・尊厳をないがしろにされるようなことだと思う。

 

 私は、自分の性嫌悪の感覚について、うまく、整理して話すことができない。なぜなら、「感覚」はわかりやすく、整理できるような、論理に則ったものじゃない。「感覚」に理屈はないし、コントロールできるものでもない。「感覚」は直観でしか伝わらないものだからだ。

 自分の性嫌悪・身体嫌悪について、真正面から、まともに向き合って、整理しようとすると、動悸がして、息ができなくなる。

 だから、わかりやすく、論理に則って、どこがいやか、相手が「納得」できるように、反論や拒否を伝えることができない。

 何人かの人から、何度も嫌だと言ってあるのに私の気持ちを無視して胸を勝手に触られたり、勝手に私の胸を性的に価値づけられたりしたことがあるけれど、きちんと言っても私が本気で嫌がっていることがうまく伝わったことはほとんどなかった。ほとんどの人は、何が悪いのかもわからない様子だった。繰り返されたこともあった。

 

 うまく説明できないということは、根本的に不利だ。うまく説明できないということは、もうそれだけで不正義にされてしまう。

 根拠が明確でない、筋が通ってない、「納得」できない、わからない、そういうことがあると相手は私が何を問題としているかわからないばかりか(つまり問題が今後も改善されないばかりか)、多くの場合相手は私の感覚を受け入れることができないからだ。そうなると、まともなレスポンスは返ってこない。対話は不可能だ。

 

 じゃあ、何を言っても「納得」しない、「わからない」人に、私の「感覚」を伝えるのは、無駄だと思われそうだ。でもそれは違う。「わかって」もらえなくても、その後問題が改善しなくても、言う意味はきちんとある。私の「感覚」を表明するのは、とても大事なことだ。

 何か嫌なことがあったとき、何も言わない、不快を表明しないでコトを穏便に済ませようとすると、それは暗黙の内に状況を追認し肯定したことになってしまう。それは絶対にだめだ。私の心をないがしろにする行為だ。

 たとえうまく説明できなくても、「納得」なんぞしてもらわなくても、私の「感覚」がなかったことになるわけではない。私の「感覚」を私が無視すると、私の心が死ぬ。

 だから、私は私という存在をかけて「うまく言えないけど嫌だ」と言うことを、やめることができない。

 何人たりとも私のからだに勝手な意味づけをすることは許さない。「勝手な意味づけ」をわかりやすく説明したりできないし、わかりやすく教えたりしない。

  私のからだは私のものだ。私は、女以前に私という生き物だ。

 それがわからない人には、付き合いきれない。

 わかりあえないということはすごく悲しいことだと思うよ。

 それでも、言うことは大切。

 

 

追記

 塩村議員へセクハラ野次を飛ばしたと名乗り出た鈴木議員も、おそらく感覚的に「わかって」ないのだろうと思う。それは謝罪会見の「結婚していただきたいという気持ちから発言した」というセクハラの上塗りのような言葉からも明らかだ。わからない人とは、わかりあえないのだ。言葉を尽くしたところで、本質を理解させることなんてできない。できるのは、「それはNGだ」と不快を表明することだけだと思う。それなのに何度も「ほんとにやめて」と言っているにもかかわらず、繰り返されたらそれはもう、ほんとに絶望だよ。

 

自分に課した〆切が来たけどなにも手につけてなかったし、まつうらだいごが余計なことを言ってしまってジョグジャカルタ原則のブログを今書くのが怖くなったのでかわりの日記

トランス排除がひどい。私は昨年の夏から怒りっぱなしだ。

 

差別はやめろ。言えるのはそれだけ。

 

状況の詳しい説明はしない。

私がいろいろ言ったところで、人はTwitterをひらいて「トランス 女性」で検索して、みたい意見をみて、賛成したい意見に賛成するだろう。

 

なぜ、トランス女性の差別に反対するのか。それはこれが人の尊厳の話であり、女性差別の話だからだ。

「真の女性」をジャッジする権限が誰にある?

誰にもない。

 

今の社会は、シスジェンダーしか想定していない。もっと言えば、シスジェンダーかつヘテロセクシャルの人間しか想定していない。

シスヘテロ仕様の社会だ。

そんな社会で生き抜くために、否応なく「努力させられる」人がいる。それは文字通り血が滲む努力だ。滲んでいるどころではない。ドバドバと流れている。滝のように。

だけど、それはマジョリティがしなくていい努力だ。意識すらすることがない。それを特権と呼ぶ。特権はそれを持つものには見えず、持たざるものの目にしか見えない。

 

シスジェンダーの権利、トランスジェンダーの権利。どっちが上とか下とかではない。本来は対立するものじゃない。今の仕組みでは不十分で、より良い施設やサービス、社会のあり方があるはずだ。新しい社会はどういうデザインがいいか、そういう「話し合い」は必要だろう。でも、「排除ありき」「今の仕組みの温存ありき」から逆算した話し合いは必要ない。「排除ありき」の「話し合い」は差別だ。

 

シスヘテ男が偽装して性犯罪云々を言う人へ。そういう悪意あるイメージのドッキングはやめろ。トランス女性の話をするときにその話題を持ち出すな。それはトランス女性が性犯罪であるかのようなひどいステレオタイプを作る。

 

私はこの話をするのがおそろしかった。

Twitterも鍵にしていた。

だって、差別者たちがどんなに楽しそうに差別をするか、知っていたから。

私はレズビアンである。私がレズビアンであることで、複数人からセクハラを含む粘着嫌がらせを受けた経験がある。

 

トランス排除派のシス女性のなかにレズビアンバイセクシャル女性がいるのを知っている。

でも、私はその人たちに言いたい。「トランス女性を排除した次に‘’女性枠”から排除されるのは非ヘテロ女性だ」と。すでにレズビアン女性の性欲は男性と変わらないと言っている人間もいる。

 

それからよく持ち出される「レズビアンにセックスを要求し断られたら差別だと騒ぐトランス女性」。そういう存在がいるかどうか私は知らないが、相手の属性がなんであれ「セックスを断ったら差別だ」というのは変だ。それは相手がトランス女性だからではなく、相手がシス女性のレズビアンだって嫌だ。顔がタイプだろうがなんだろうが嫌。嫌という気持ちを無視してされたなら、それはレイプで、属性云々という次元の話ではなくなる。

ふつう、セックスは相手と自分との合意によってのみなされる。そして、「したい」より「したくない」の方が優先される。めちゃくちゃ基本の話だ。

シス女性のレズビアンのなかにもレイプをする人間はいる。でも、シスレズビアンぜんぶがレイプ魔ではない。そういうことだ。

今後、私に「トランス女性を擁護をするってことは、トランス女性にセックスを求められたら絶対断らないってことなんですね?」というふざけた質問を寄越す人間がいたら、「この人はセックスを(性的指向の対象とする性別の人から)求められたら絶対断らない人なんだな」って思ってブロックする。その質問はセクハラだから。まあ、すでにそういう質問を何度かされたことはあるけど、控えめに言って下衆だなと思う。

 

 

 

 

 

詩をひさしぶりに書いた。

 春夏秋冬、具合がよくない。

 春は花粉症で大変だし、夏は薄着の季節でどうしたって自分の身体が目に入る。秋は天候と連動するように情緒が不安定になり、冬は冬眠したくてしたくてたまらないのに無理やり起こされ続けている亀みたいな気持ちになる。

 

 どの季節だってそれぞれ良い部分はあるのに、余裕というものがうまくできない。

 

 ところで、久々に詩を書いた。

 私は、中学生のころから、ときどき詩を書く。いつもいつも書いているわけではなく、思いついたときに、書けるときに書く。

 最近では、数ヵ月とか一年に一編とか、そんな調子だ。

 誰かにみせることはあまり目的としていない。けど、紙のノートだと紛失するのでWebにアーカイブしている。これなら、私のようなズボラでもサービスの続く限り、管理できる。ひどく寡作だけど。

 

 

 詩作というのは不思議だ。幽霊をつかまえるのに似ている。

 できるときはできるし、できないときはできない。

 自分でもわけがわからずしんどさで破裂しそうな気持ちになるときがあり、そういうときに詩ができると、胸がスッと楽になる。パンパンに膨らんだ空気人形を針で突いて空気を抜いたように、沸騰した鍋に差し水をしたように。

 

 詩の批評のことはなにも知らない。

 けれど、詩を書くことを通して、「今ここ」からちょっとズレたり、自由になったり、そういうことができるかもしれないと思う。

 わからないけど。

 まあ、そうであったらいい。

 

 

 

 

【自由詩】塩でも砂でもないんだし

(くそしにてぇ、という気持ちのときこそ詩がかけますが、「くそしにてえ」という内容のものは書きません。なぜならクソダサくなるから)