初めて 銀座のヘラルボニーの展示場に行きました
過去 障害者をいじめていたとインタビューで発言し大きな問題となった小山田圭吾へ、ヘラルボニー側から手紙を出しヘラルボニーが以前からやっていたルーティンレコーズという試みに小山田圭吾が参加する形で作品を作って展示していました
ルーティンレコーズとは、知的障害者の人がルーティンのように発する音、声を収録したアート作品です
実際に人が発した音を収録してそれを小山田圭吾の音楽に組み込む形になっていました
正直な感想としてはあまり生の音が使われておらず、小山田圭吾の音楽の方が前面に出ているという印象でした
ヘラルボニーの展示場は小さな部屋で、「作品」を生み出す「作家」とその簡単な紹介、アートが飾られていました

隣の部屋ではそのアートを元にしたデザインの洋服が売られていました
パッと見た感じでは3万円以上が平均価格帯と感じました
ヘラルボニーはとても大きな話題となっている企業です
ですが、ヘラルボニーにアートを提供している人たちが買えるような値段の洋服とは思えません
知的障害の人たちのアート、というストーリー込みの高級ファッションブランドという風に感じました
それを身につけることが、富裕な層の一種のステータスとなるような印象を受け、非常に厳しい気持ちになりました
当たり前のことですが、知的障害者の人みんながアートを好むわけではありません
アートと呼ばれるようなものを生み出せる人ばかりではないのです
一言で言えば、ヘラルボニーの行き着く先には普遍性がない
福祉の代替となるような試みとは思えませんでした
また 展示会場が銀座の一等地であったことも、なかなか複雑な気持ちにさせられました
銀座といえば アートギャラリー、そしてハイブランドの街です
ヘラルボニーの展示会場に行く間にいくつものハイブランドの店舗がありました
実際に行ってみることでヘラルボニーがどんな客層を想定しているのかということを考えざるを得ませんでした
ついこないだ、相模原殺傷事件から9年となったばかりであり、知的障害者の存在感(あるいは、存在価値と言い換えてもいいかもしれません)のようなものが、こうした資本主義の場で金銭に替えられるステータスとして証明される試みは苦々しい気持ちになる、というのが正直な感想です
誰にも誰かの生きる価値を論ずる権利はありません
また他人に証明する義務もありません
こうして金銭的価値の高いファッションになるアートを生み出せるから知的障害者に存在価値があるんだという風に読み取られる危険性を感じました
私は 知的障害者の人たちが社会でもっともっと 存在感を発揮してほしいと思っていますが、それは富裕な資本主義の土台に乗って存在感を発揮してほしいというような意味ではありません
ただ、ここに生きているんだ、同じ町で同じお店を使って、同じバスに乗って、隣でふつうに生きてるんだ、というふうに多くの人が感じるのが理想だと思っています
早く誰もが、役に立つからとか、評価されるとかそういう枠から自由になってほしい、自由になりたいと考えています
それは私も含めて
