服のことを考えるといつも憂うつになってしまう。一日かけて街中を歩き回ってありとあらゆる服屋を見てまわり、そこにわたしサイズの着たい服がなくて泣きそうになりながらとぼとぼと帰る。それがお決まりのパターンだ。
わたしには目指すべき方向がなかった。雑誌を見てもむなしいから見なかった。メンズ服は大きすぎる。レディース特有のデザインは着たくない。わたしのサイズに見合い、レディースっぽさのあるデザインやラインを慎重に廃すと、着ることのできる服はトレーナー、パーカー、Tシャツ、ジーンズ。これだけだった。なんて情けない。
わたしは無になりながらファーストリテイリングの無地のTシャツとジョガーパンツとパーカーを毎日着て労働に出かけた。ほんとうに無だ。自我のない服だ。あえて好きになれない絶妙に嫌いな服を選んで着ていた。
労働はしなないとできないから。
わたしはわたしの裸を嘘だらけだとおもう。わたしの身体をみてもそこにあるのは社会的わりあてとジェンダー化された社会のルールだけだ。
だから、服を着なければならない。わたしの身体を上書きする服が必要だ。
しかし最近、ひとに励まされ、海外のトムボーイ(あるいはトランス男性)のファッションスナップを見せてもらい、かっこいい靴ととんちき服を探してる。服のクィア性を考える。派手であればクィアだと言いたいわけではない。しかし、すでに付与されてる文脈をぶっ飛ばす強さが必要なのだ。
無地よりも柄、アースカラーよりも原色、硬くてゴツい革靴。
無難な服は弱い。わたしを無にしてしまう。ジェンダーという文脈をあいまいにしてしまうような、意味不明な強さ。それがほしい。
わたしは無になりたくない。
鎧のような服でわたしのやわらかい肉を覆う。
わたしをジェンダーにする服を探してる。