言葉から離れたいと思うときがある。
なにも言葉にしたくないとき。
ただ、それでもなにかをしなければならないような気持ちであるとき。
絵日記をはじめたのは、1月の終わりのころだった。
言葉から逃れるようにはじめて、途中から始めた動機を忘れて、絵日記自体をたのしむようになった。
見てくれる人もいた。
けれど、6月になって、絵日記をはじめたきっかけが消えてしまった。
今は絵日記を続けるかどうか迷っている。
区切りかな、と思う。
わたしのなかには感情を放り込んで蓋をする箱がある。
別にそれで爆発したりするわけではないので、なんでもそこに放り込んで、わたしをおびやかさないくらい鮮度を失ったら、取りだして整理するのだ。
絵日記は、その箱の鍵穴だったかもしれない。
なかを覗けるちいさなすき間。
でも、鍵穴に目をあてたところで、生の感情が見えるわけじゃない。むしろ、ぼんやりと違うものがみえるような、あいまいにするためのしかけだった。曇ったカレイドスコープのようなものだ。
それは中のものを思い出すよりも、保存しながら忘れるための役割を担っていた。わたしは箱の中身よりも、表面の木目のほうが重大事であるように絵日記を描きはじめた。
それがわたしには必要だったのだ。