k-zombie’s diary

ツイッターにおさまらないことなど

「生産性」なんて、いらない

なんか最近、ほんとうにかなしくて、かなしくて、ダメだなぁって思っていた。
ニュースがつらすぎて、ダメだ。

杉田が何か言う前に、東京医科大の不正が明るみになる前に、ずっと前にすでに殺されていたよね、って思っている。

性差別で、ホモフォビアで、民族差別で、所得差別で、障害者差別で。

文字通りいのちをなくしてしまった人もいるし、子どもを作る能力を強制的になくす手術を受けさせられた人もいるし
教室で、労働現場で、飲み会で、家の中で、曖昧な笑顔を浮かべて、飲みこんだ言葉とともに、ちょっとずつ殺されていたよね。


杉田の言う「生産性」って言葉の意味するところは、ほんとうは「生産性」ではない、と思っている。
ほんとうに「生産」しているかは、けっこうどうでもいいんだなって。

誰を残し、保護し、「まとも」な人間と認めるか。
ずっとそういう選別の存在している社会だったよね。

その選別に客観性や正当性のある基準なんて、ない。
でも、ある種の人が思う「国や社会にとって都合の良い理想の人間像」ならある。
杉田みたいな人の言う「生産性」って、「国や社会にとって都合の良い理想の人間」かどうか、ってことだよ。

私が生まれてからいままで、そういう選別がなかったことがなかったよ。


「生産性」があるから差別するな、って言う人もけっこういるけど、それは「生産性」がない人はどうなってもいいっていう意味になる。


だから、「生産性」なんていらない、そんなもののために生きているんじゃない、ってわたしは言う。