ここ数ヵ月、Twitterに顔出さない間、主に子どもと遊んでました。
いわゆる知的・発達しょうがいの子どもたちです。
そうやって一くくりにするのは違和感があるのだけど、一言で表すとそうなってしまう。たぶん、一言で表そうというのが間違い。
で、ひとつだけわかったことがありました。
それは「みんなすごくいろいろ感じていて、言いたいことがいっぱいあって、感情がある」っていうこと。
言葉にするとすごく当たり前。
ね、とっても当たり前のことですよね。
でも、私はたぶんわかってなかったんだなあって思っています。
言葉が出るかでないかとか、感情表現とか、そういうことだけとっても、いろいろな子がいたのですけど
「言葉を生まれてから一度も(自分からは)使えない」とか
「自分の感じていることとはまったく別の表情をしてしまう」とか
「本当は“嫌だ。我慢できない。限界だ”って言いたいのに“おにぎり食べたい”としか言葉にならない」とか
そういう不自由さを想像できるでしょうか。
そういうコミュニケーションの大変さのなかに生まれてからずーっと置かれ続ける毎日を、リアルに想像するのは難しいことだと感じます。
人を知るって
表情だけ見てても(内面は)わからないし
言葉の意味だけ考えても全然わからないし
時間をかけて、その人の文脈、流れ、法則、……とにかくそういうのを一つ一つ集めて並べて、それでも足りないピースから全体像を推し量るっていうことなんだなぁって教わりました。
具体的に言うと、うんちがちゃんと出てるかとか、そういうのも気持ちを推し量るとっても貴重な材料になる。
いつも無表情でもその数百万倍たくさんのことを感じているから、表情をつくる余裕がないかもしれないこととか
日本語を一言もしゃべらないし、yes/noの意思表示もしないけど、ちゃんと単語を聞き取っていて意味もわかっているとか
子どもと時間をかけて遊ぶ機会をいただく前、私はよくわかっていませんでした。
ようするに
「わかりやすく表現できない」と「表現すべきこと(感情)がない」は違う
ってことを、私はこの日記で一番言いたい。
結論は
「人を理解するためには、相手の心に興味を持って、ものすごくいろんな角度から、いろんな情報を集めて、いろいろ考えようよ」
ってこと。当たり前過ぎて恥ずかしくなるくらい、基本的なこと。
わかりやすさに甘えてたら、足りないのです。
人を相手にするって難しいですね。
私、子どもと遊ぶ前、しょうがいの知識がたくさん必要なんだと思っていました。
でもそれは間違いでした。
しょうがい特性の知識は確かに必要。でもそれはその人を理解するための道具の一つでしかない。最終的に知らなきゃいけないのは、その人の心でした。
気がつかないうちに「しょうがい者」って枠組みで見ていたのです。
偏見でした。
授業でICF(国際生活機能分類)ICF(国際生活機能分類)とは?ICFの考え方からその活用法まで、分かりやすくご紹介します! | LITALICO(りたりこ)発達ナビとか習ったけど、全然わかっていなかった。