このごろ、私はとてもにぶくなった。
大変に怠惰なことである。
日々、感受性が失われていくのを感じている。
ここ数ヵ月、私は毎日便器を磨いたり、ことばをしゃべらない人を相手にしたりしていのるだけど
私はどちらかというと、思春期に内心でこねくりまわした言葉のうえに自分というものを打ち立てて広げてきたような人間なので
ことばをもたない人のことをあまり想像してこなかったことに気づいた。
ことばをもたないということは、なにも考えていない、ということではもちろんなかった。
うー、とか
あー、とか
しか言わないのだけど
それぞれにしっかり世界があって
自己主張というものがあり
彼らだけが抱えている複雑ななにかがあって、それがことばという道を通らないだけなのだ、と思う。
私はバカなので、ことばと使わないと、相手のことも汲み取れないし、なによりことばなしでは自分というものがなくなっていくように思う。
糸賀一雄というしょうがいじ教育をしていた人が50年くらい前に
この子らを世の光に
という本を出したのだけど
つまるところ、世の方が、ひいては私の方が変わる必要がある、ということだと思う。
話は飛ぶけど
私の感受性が一番とんがっていたとき
私は詩を作っていたりしていた
それが一番いい発散方法だったのだと思う
今見てみても
自分で作ったものだからか、恥ずかしさより、共感するし、よく作ったなあ、と自分を誉めたい気持ちが勝る
興味がある人は以下のリンクを見てほしい
まだその大半が残ってるから
http://www.casphy.com/bbs/test/read.cgi/poem/1269669170/all/#pagination
ひとつ転載して、この日記をしめることにする。
2013-01-15(火) 17:18:03 [削除依頼]
水にながせ、水にながせ、といふやつら。
ながしても、ながしても、尽きず。
もはや、染みなのだ。
染みは、"ここにあってはいけないもの"の 泉。
ぽこぽこと、湧きだして。
水は、どこから来て、どこへいくのか。
君のなかにも、ながれて
僕のなかにも、ながれて
どぶ川の淵には、無数の"不都合"が留まり
行き着くとこまで行き着いたやつらは、海になる。
ものども
なくなったりは、しない。
ながしても、ながされても、
常に、すでに、湧き、染みだす。
ぽこぽこと、ぽこぽこと、右心室の隅に
あるいは、君の味蕾のうえに。
苦くて、酸っぱい、味だ。
「どこまでも」