k-zombie’s diary

ツイッターにおさまらないことなど

にっき

代理出産のことで色々考えてしまった。


子どもを成す、あるいは育てるということが、どれだけ人を縛っているかということを。
「子どもがほしい気持ち」は、ままならないね。
代理出産も問題がたくさんあるけど、「じゃあ里親や養子縁組にしよう」とも私は言えない。
だって、子どもは「誰かの親になりたい気持ち」を満たすための存在じゃないから。


同性カップルも、里親や養子縁組出来るようになればいいと思うけど、誰にもそれは「子ども供給システム」として期待してほしくない。
どうやったって、子どもの実親の存在は消せないし、もし子どもを引き取ったとしてもその子のルーツを否定してほしくない。
そうそう都合よく「自分の子」に出来るものじゃない。
子どもが養育を受ける権利を保障するのが、社会的養護の制度で、それは一にも二にも子どものためのモノであるべきで、決して大人の気持ちを慰めるための仕組みではない。


子どもが子どもの人生の主役なのに、おいてけぼりになることが多いと思う。


代理出産には、色々問題点があるし、私はそれをここに全部書き出したりしない。


ひとつだけ言えることは、海外で代理出産した子を、同性カップルが法的な両親として迎えることは、おそらく無理だということ。
日本国内でも代理出産は法的に禁止される方向になっているうえ、同性カップルは特別養子縁組を結べないし、そもそもどのような場合でも同性カップル双方に対等な親権を認める仕組みがない。
誰かが推進したところで、根本的なところで無理だと思う。


高校生のとき
「私は親にはなれないと思う。一人の人間の人格形成に深く関わるなんて、責任重大だしこわい」
と、友だちに言ったら
「母性の欠片もないね」
と言われてしまったことがある。
まさか母性と返されるとは思っていなくて、驚いてなにも言えなかった。
「親になる」「子どもを持つ」ということが、あまりに理想化されて、あるいは一人前の人間の条件のように言われていて、それはもう、色んな人がそういった価値観と無関係ではいられない。
「親になりたい」という気持ちは、単に職業やボランティアとして、限定的や間接的に子どもの成長に関わることでは満たされないなにかがあるのだろう。


親になりたい気持ちは、とても切実なものだと思うし、それを悪いものだと思わない。
けれど、その気持ちを満たすために、なにを引き替えにするのか、考える必要があると思う。
権利は他者の権利との関係によって制限されるものだから、子どもを持つことが権利だとしても、それが誰かを蔑ろにすることならば権利を制限されることがある。


あのふーふに、色々すっ飛ばして、問題の多いことを、批判を受け付けずされてしまうことが、私はとても嫌だった。
レズビアンという看板で、ゲイ向けに、LGBTビジネスとしてされることが、とても嫌だった。
私は彼女らと同じだと思われたくなかった。
私以外にもたくさんのレズビアンやゲイ、そしてトランスも批判したけれど、そういった批判に応答しようとしなかった。
まともな批判にも応答しないなら、人を巻き込まないでほしいと思った。
彼女らによって、LGBT運動とはつまり、そういう代理出産のようなたくさんの問題があることを強引に推し進めることだと思われたくなかった。
彼女らに、私を含めた代表者になってほしくないと思った。
新らたに偏見を煽ってほしくないと思った。
それが一番我慢ならないと思った。
どうしてもやるなら、その看板をおろしてやってほしいと思う。
勝手なことだけど。


セクシャルマイノリティの運動が、マジョリティの理想の家族のかたちをなぞることで、今よりずっと生きづらくなりそうな、そんな予感がしている。
しあわせなふーふで、子どもがいるみたいな、ちょっと古い幸せのかたちをなぞることが、一人前として認められる条件として、マジョリティ以上に求められるのではないかという気がしている。
同性カップルがそのかたちを実現して、強化していったら、シスの同性愛者たちは、きっと境界線のマイノリティや、アセクシャルノンセクシャルの人のことを忘れてしまいそうで、すごく嫌だ。