k-zombie’s diary

ツイッターにおさまらないことなど

雑なアイデンティティ。もしくはラベリング

 先日、ツイッター上で、もやもやする出来事があった。

 

 簡単に言うと、一部のシスゲイのミソジニーに非常に恨みを持っている人(おそらくシスジェンダーヘテロ女性のBL愛好家の方)による「レインボー」や「LGBT」という言葉の使われ方だった。

 その方は、シスゲイのミソジニーに対して、それがセクシャルマイノリティ全体の責任であり、セクシャルマイノリティ全体が一つの人格を持ち、「レインボー」全体がミソジナスなシスゲイと同じ共犯性を持ってその方の属性(ヘテロ女性のBL愛好家)を抑圧する方向に働いていると考えているようだった。

 その方(やそのフォロワーの方)にとって、「レインボー」や「セクシャルマイノリティ」内の差異や力関係というものは、なきに等しいもの・無視できるほどのもののようだった。

 

 私は、戸惑ってしまった。

 セクシャルマイノリティ、あるいはLGBT、という言葉は、さまざまな属性を抱えた人を包括するものだ。PRIDEの象徴であるレインボーカラーは、セクシュアリティのボーダレスでありながら多様なありさまを表現したものである。

 「セクシャルマイノリティ」というくくりの中でも

 シスジェンダーなのか、あるいはトランスジェンダー(やGID)なのか。トランスジェンダーならば、医療や性別変更についてどのような希望を持っているのか

 性的指向は、同性へ向くのか、両性へ向くのか、異性へ向くのか、あるいはそのどれでもかったり、どこにも向かないのか

 性自認は、女性なのか、男性なのか、無いのか、両方なのか、ときによってゆれうごいたりするのか

 セクシャルな感情と、ロマンティックな感情は一致しているのか。どちらかがあって、どちらかが無いということだったりしないか

 好きになる相手は、一度に一人だけなのか、それとも同時に複数人を好きになることがあるのか

 どのような文化に親しんできたのか、二丁目的なカルチャーになじみはあるか

 などなど、限りない指標と組み合わせがあり、その一つ一つの立場でぜんぜん違うのだ。そして、当然のことながら、シスゲイのミソジニーにさらされているのは、シスへテロの女性だけではなくレズビアンもトランス女性も同じミソジニーに直面しているし、BLが好きなゲイの人だって結構な割合でいるのだ。

 決して、一部を取り上げて、一般化できるような、均質な集団ではない。のだけれどどうやらそうは考えない人もいるということに、私は驚いたし、引っかかった。

 

 たしかに、セクシャルマイノリティの権利運動のなかで、「セクシャルマイノリティ」をひとつの人格のように演出するのが、最近のメインストリームだということは認めよう。

 でも、ほんとうにひとつの人格だとみなす人がいるなんて、思わなかった。

 

 「LGBT特集」というものが組まれるとき、まずLGBT以外が排除される。

 その次に、同性婚のことだけ取り上げたり(それは同性婚特集と名づけるべきだ)、トランス=性同一性障害として取り上げたり、バイセクシャルを言葉の説明の数秒間のみであとは無視し続けるか、などの偏ったあり方がよくある。

 私はそれに我慢がならない。恣意的な言及方法や排除を卑怯だと思う。

 

 私は、「LGBT」とか「セクシャルマイノリティ」という言葉を、本来バラバラなものたちを連結するスローガンだと思っている。その言葉だけで、具体的な何かを指し示せるものではないと思う。

「私はLGBTです」という自己紹介は、本当に意味がわからない。LGBTとは異なる属性を張り合わせた言葉であり矛盾をはらんでいる。「Lであり、Gである」なんて状況は存在しないのだ。

 

 96年、代々木公園で行われた東京レズビアンゲイパレード

 一部の実行委員が勝手に決めた「宣言」の採択に、参加者へ何の相談も予告も無く、なんら意思決定の参加のチャンスも無く、突然頭数としてだけ動員されようとする事件が起こった。

 その横暴を阻止しようとしたレズビアンに向かって、実行委員側の人間が「レズのくせに何を言いやがるのか」と言い放った。

 ものすごく雑な「セクマイ」のくくりと、その内部のミソジニーを現した象徴的な出来事だと思う。

 

 LGBTセクシャルマイノリティというスローガンは、アイデンティティにはなりえないと思う。

    でも、マイノリティであるということは、十把一絡げに雑にくくられて、ステレオタイプな人格を付与されるということなのかもしれない。

  そして、ときに権利運動の活動家は、自らわざと雑なくくり方をして、新しいステレオタイプ、都合のよい人格を作り上げているのではないか。都合のよい人格とは、都合のよい物語と言い換えてもいい。

 受け入れられやすい、解釈しやすい、わかりやすいストーリーだけが採択されて、わかりにくい、都合の悪い人は排除されているのではないか。(例えば、「セクシャリティを選択したわけじゃないから差別しないで」というのはよくあるストーリーだ。このストーリーの前に、ゆらぎや選択したセクシャリティは消される)

  恣意的な雑なくくりを、「戦略」と捉えている人がいるのではないか。題目には利用するのに実際は内部で仲間外れにしているのではないか。

 こういうことを考えるとすごくもやもやする。


 ラベリングの雑さと人格化、それによる巻き込み事故や分断、そしてあえて雑なくくりを利用する人たち。

 私はそういうものに、本当に我慢がならない。


おわり