k-zombie’s diary

ツイッターにおさまらないことなど

あなたが好きだからこそ許してくれは甘え

 私はつい最近、20歳以上年上のとある人から合計8000字くらいのメールをいただいた。

 私はその人と市民団体を立ち上げたのだが、私が仕事をし、よりよくしようと意見を言うたびに空気が険悪になった末の結果だった。また、以前からキツイ言葉をその人からちょくちょく言われていた。

 そのメールには、私の人格に対する「冷酷」「独裁」「思いやりがない」「他者への想像力が足りない」「感謝の心が足りない」「あなたのためにやったのに、あなたは恩知らずだ(※私は頼んでない)」「ネガティブな反応しかしてこない」「私がいたからこそあなたは活動できている」「私をうまくコントロールすればよかったのに(私をうまくコントロールできないあなたはダメなやつだ)」「あなたはマイノリティであることを乗り越えられていない。乗り越えるべき」などのコメントが多数あり、私はそのメールに大変ショックを受け、傷ついた。私はそのメールを私への人格否定と受け取った。

 客観的にみてもかなりひどい内容だったのではないだろうか。私は当事者だから、相対化してみることはできないが、このような言葉の数々は尋常とは思えない。

 私は一回は返信したが、その後は返信せずにいたら、しばらくして私に謝罪する「優しい(?)」内容のメールが来た。

 「後悔している」「大好き」「私が本当に求めているのはあなたのような人」「私とあなたとの関係は私と母親の関係みたいだった。まるであなたは私の子どものように思う」「あなたと衝突できてうれしい」

 大体、上記のようなことが書いてあった。

 

 これを受け取ったとき、最初の人格否定のメールを受け取ったときよりもヤバいと思った。

 ピコーン!「これはDVだ」

 一般にDVは、

 緊張形成期(張りつめた期間)→爆発期(暴力が起こる)→解放期(ハネムーン期)→以下ループ

 のサイクルをたどると言われている。

 この人は、私にひどい言葉の暴力をふるったあとに、「あなたのために」「悪気はなかった」という言葉とともに「でも、あなたのことが大好き」と言ってきた。

 けれども、「大好き」だからといって、このようなことをしていいことにはならないし、勝手に「親しく」感じていたとしても、相手に許してもらおうとするのは、甘えだ。

 私は相手が「母子」に関係を例えたことも、かなり危険だと感じた。

 ひどいことをしたあとに、優しくして、相手を混乱させ、つけいるのは、DVやマインドコントロールの代表的な手口だ。

 「ひどいことされたけど、この人はこんなダメな私を愛してくれているし、悪い人じゃないんだ」

 と、ひどいことをされた人が思うようになるのは、「洗脳」と言う。

 いちどこの「洗脳」の状態になってしまったら、被害者は自分の傷つきを軽視せざるを得なくなり、相手の暴力は繰り返し放題になってしまう。(念のために言っておくが、被害者が悪いと言っているわけではない。どんな暴力も殴られる方の痛さはなくならない)

 

 「親しい仲にも礼儀あり」と言うが、「親しい仲」での出来事は、ブラックボックスとして暴力も見過ごされることがある。

 「親しいからこそ、こんなひどいことをしても許される」というような考えを思っている人はいるんじゃないだろうか。

 そういう人は気を付けてほしい。

 「親しく」ても、ひどいことをしてはだめだ。

 ひどいことをされた相手は、それを許さない権利がある。

 

 私も、その人ともっと早く適切な距離を取ればよかったと、後悔している。

 当初、私はその人のことを素晴らしい人だと思った。けれども、実際は思ったほど素晴らしい人ではなかった。それは、私の身勝手で子供じみた期待だったと思う。

 期待が外れた私はそこで適切な距離を取ろうとせず、やさしくない言い方でその人のミスを指摘した。それはよくなかったと思う。

 相手が「母子のような関係」と勘違いしてしまったのは、私のせいもあるだろう。私は「母子のような関係」と思ったことはなかったが。

 

 私も「あなたが好きだからこそ許してくれ」とどこかで甘えていたと思う。

 相手もそう思った。私もそう思った。

 けれど、暴力を受けた事実は取り消せない。

 ここで許して、和解しても、また同じことの繰り返しになるだろう。

 人は、「変わろう」と「本気で」思っても、そうそう簡単には変われない。

 「変わる」には、傷つけられても許してくれる都合のいい人を練習台にすることより、専門家のもと治療的な介入が必要だ。

 私は相手の「変わりたい」という思いに付き合って、傷つけられ(傷つけ合い)たくはない。

 ひどい暴力が起こって、相手が「母子のような」ドメスティックな関係だと私と相手のことを認識している限り、一緒に何かをすることはできない。近づくことはできない。許すこともできない。許したら「甘え」が必ず発生し、暴力が繰り返される。

 「母子のような」関係性こそが、この暴力の一番の原因だからだ。

 

 私は、その後その人と直接会って、少しだけ話した。

 その人は涙ながらに「本気で悔い」私を引き留めたが、私はそれを拒絶した。

 相手が「すまない」「後悔している」「悪気がなかった」「変わりたい」「後悔している」「あなたのためを思ってやった」とか、ぜんぶぜんぶ「本気で」思っていたとしても、その人が「ふだんは善人」だったとしても、そんなことは暴力の前には「関係ない」んだ。

 嫌なことをされて、嫌なことをされたくないという思いだけが重要で、真実だと私は思う。

 

 「変わる」ことが必要だとしても、不適切な関係になった間柄で「変わる」ことはできない。

 健全で、暴力のない関係のなかでしか、人は健全に変わることしかできないと私は考える。

 

 

 おわり

(私は自分のことを被害者のように書いたが、それだけではない部分もあっただろう。ツイッターで荒れて、愚痴を書いてしまってフォロワーさんには不快なものを見せて迷惑をかけた。本当にそういうとことが私は未熟だなと思っている。フォロワーさんにはこの場を借りてお詫びしたい。本当に申し訳なかったです。※この日記は世のDV被害者を非難する意図は毛の一本ほどもありません。私は私の個別事象について言及しています)