k-zombie’s diary

ツイッターにおさまらないことなど

「理解」はしなくていい


「理解する」は「所有する」「支配する」に似ている

 ってうっすらずっと思っている。


 差別のはなしのとき「理解」という言葉がふわふわと浮いているように感じる。
 
 たしかに、差別の根っこをなくすためには、ある程度マジョリティはマイノリティのことを「理解」しなければならない。
 なぜなら、相手のことが分からなければ、誤解もなくならないし偏見もとけないからだ。

 けれども、わたしは「理解」という言葉の前に身構えてしまう。

 

 

 「理解」。それって、どういう意味?
 
 っておもっている。


 
 世の中には、ゆがんだ、都合のいい「理解」をしたがっている人がいる。相手を自分の中の像に寄せようと聞きたいところだけ聞き、聞きたくないところは聞かない人が。


 「理解」はなんのために必要なのだろう。
 
 なんのために、というところが置き去りになっている人の「理解」はこわい。
 そういう人の「理解」は、簡単に珍獣扱いに化けてしまう。


 本来、「理解」なんて、できるはずのないことだ。他人の気持ちなんて。
 わからないはずのことを求める以上、わからないことにも敬意を抱いてほしい。
 わからないこと、違うことを「同じ」にしなくていい。あなたも「同じ」にならなくていい。
 
 けれども、わからないこと、違うことを憎まないで、さげずまないで、遠ざけないで。わからないことだけを、知っていればいい。

 

 そして、今までの自分に改めなければいけないところがないか、つねに探しつづける必要がある。

 あなたもわたしも。

 

 

 追記

 真に理解する必要があるのは、あいてのことではなく、自分のことだね。相手を目の前にしたときの、自分のことを知る必要がある。