「理解する」は「所有する」「支配する」に似ている
ってうっすらずっと思っている。
差別のはなしのとき「理解」という言葉がふわふわと浮いているように感じる。
たしかに、差別の根っこをなくすためには、ある程度マジョリティはマイノリティのことを「理解」しなければならない。
なぜなら、相手のことが分からなければ、誤解もなくならないし偏見もとけないからだ。
けれども、わたしは「理解」という言葉の前に身構えてしまう。
「理解」。それって、どういう意味?
っておもっている。
世の中には、ゆがんだ、都合のいい「理解」をしたがっている人がいる。相手を自分の中の像に寄せようと聞きたいところだけ聞き、聞きたくないところは聞かない人が。
「理解」はなんのために必要なのだろう。
なんのために、というところが置き去りになっている人の「理解」はこわい。
そういう人の「理解」は、簡単に珍獣扱いに化けてしまう。
本来、「理解」なんて、できるはずのないことだ。他人の気持ちなんて。
わからないはずのことを求める以上、わからないことにも敬意を抱いてほしい。
わからないこと、違うことを「同じ」にしなくていい。あなたも「同じ」にならなくていい。
けれども、わからないこと、違うことを憎まないで、さげずまないで、遠ざけないで。わからないことだけを、知っていればいい。
そして、今までの自分に改めなければいけないところがないか、つねに探しつづける必要がある。
あなたもわたしも。
追記
真に理解する必要があるのは、あいてのことではなく、自分のことだね。相手を目の前にしたときの、自分のことを知る必要がある。